てつはう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20 cm、総重量は4-10 kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。 2001年(平成13年)、長崎県の鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。 「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石器がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石器は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器を目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている。
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てつはう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:44 UTC 版)
「ギリシア火薬」および「手榴弾」も参照 宮内庁保有蒙古襲来絵詞前巻2(文永の役)に蒙古軍の炸裂兵器として「てつはう(鉄炮)」が描かれている。「震天雷(中国語版)」とも呼ばれるもので、長崎県松浦市の鷹島海底遺跡から元寇当時の遺物が引き上げられており、外部は土器と陶器の中間の質で直径約20センチの球状で、内部には鉄片や青銅片を火薬や硫黄とともに詰めた、手榴弾に近い兵器であったとされる。従来は威嚇的な音響効果を狙ったものとするのが一般的な説であったが、近年では相応の殺傷能力を期待した武具であったものと考えられている。 「てつはう」については八幡愚童訓に記述があり、「日本の大将には少弐入道覚恵が孫・・・箭合(やあわせ)の為とて小鏑を射たりしに蒙古一度にドッと咲(わら)ふ。太鼓を叩(たたき)銅鑼を打ち、紙砲鉄砲を放し時を作る・・・」とある。 てつはう長崎県松浦市鷹島神崎沖出土。東京国立博物館展示。
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