擲弾の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 21:04 UTC 版)
擲弾が最初に使用されたのは8世紀の東ローマ帝国においてであり、その中身はギリシア火という液体だったとされている。地中海の覇権を巡る、東ローマ帝国のイスラム圏に対する戦闘を支えたギリシア火は、その製法が長く最高軍事機密とされたまま、東ローマ帝国の滅亡とともに失われたため、実像のはっきりしない兵器である。 一方で、黒色火薬が発明された中華圏では、早くから火薬を詰めた擲弾や原始的な手銃が使用されており、10世紀にはかなり普及した兵器だった事が判明している。 火薬入りの擲弾が日本で使用されたのは、13世紀の元寇襲来の際に登場した“震天雷”(てつはう)が最初である。 当時の“てつはう”が現存しないため、かつては爆発音と閃光で敵をひるませる威嚇用途の兵器(或いは火薬を使用する兵器である事を否定する説さえあった)と考えられていたが、2001年に長崎県鷹島町(現:松浦市)神崎港の海底から、実物の“てつはう”[リンク切れ]が発見され、内部に鉄片が仕込まれた直径14cm・厚さ1.5cmほどの陶製の殺傷用擲弾だった事が判明している。 その後、14世紀頃になると倭寇対策に朝鮮に火薬の製造技術が導入されて火桶都監が設置され、火車(火箭を多数発射する)や震天雷といった火薬兵器が製造されるようになったため、この時期から江南・朝鮮との交易によって同時期の日本にも黒色火薬の製法についての知識が伝来したと考えられており、文献に残るだけでも下記のような記述が残されているとされる。 1409年, 1419年: 対馬において小銅銃が試射される。 『李朝実録』より[要出典] 1466年 (文正元年) 7月 琉球の官人が京都で「鉄炮一両声」を放ち人々を驚かす。 『蔭涼軒日録』より 1468年 (応仁二年) 正月: 応仁の乱の営中にて、“和州之匠”が“発石木”を造り、石を飛ばして見せた。 『碧山日録』より 1468年 (応仁二年) 10月: 応仁の乱の東軍・細川成之の営中に火槍が準備されていた。 『碧山日録』より 1510年(永正七年): 唐国渡りの小銅銃が使用される。 『北条五代記』より 伝承としては、楠木正成が篭城戦で“てつはう”を使ったとされているほか、太田道灌も江戸城築城の際に天然硝石と思われる“燃土”を発見し、これを用いた狼煙や火箭といった火薬兵器使用のパイオニアだったと伝えられている。 戦国時代に入ると火縄銃が国産化され広く普及したが、鉄の加工技術が鍛造中心だった日本では大型の鋳造砲を製造する事が困難であり、榴弾の打撃力を埋める存在として焙烙玉と呼ばれた擲弾が長く使用された。焙烙玉は江戸時代を通じてポピュラーな兵器であり、大塩平八郎の乱や英国公使館焼き討ち事件でも使用されている。
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