海底調査
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戦闘詳報による大和の沈没地点は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる。 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。 1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。 1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。 2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した。この調査では遺品の回収は行われなかった。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている。
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海底調査
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近年の海底調査では、長崎県鷹島南部の海底から元軍の刀剣や碇石などが発見されている。海から引き揚げられた物の中には、元軍中隊長クラスの管軍総把の証である「管軍総把印」と刻まれている青銅印が発見されている。管軍総把印の印字は、元朝の国字パスパ文字で刻まれており、印面の裏の左側は漢字で「中書礼部 至元十四年(1277年)九月 日 造」の字がみえる。 2011年10月24日、琉球大学教授・池田栄史の研究チームが、伊万里湾の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇時の元軍船と判定したと発表した。2011年11月16日に参議院に提出された「長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問主意書」 に対して、政府は同1月25日の答弁書において文化庁において文化財指定に向けた準備を進める見解を示し、その後元軍船が発見された鷹島東部沖合は「鷹島神崎(こうざき)遺跡」として国の史跡に指定され、日本初の水中遺跡となった。 2014年10月2日には、さらに2隻目となる元軍船を1隻目の発見地点より東に約1.7kmの地点で発見したことを池田栄史が発表。左右両側の外壁板や船体内の隔壁板の構造が分かる良好な状態で残っていることを明らかにした。なお、船体は長さ約12m、最大幅約3mで、周辺から中世の中国製とみられる茶碗、壺といった陶磁器が約20点見つかり、船体は外板が3枚打ち付けられ、船内が9枚の隔壁で仕切られている等、中世の中国船の特徴が確認できることから、江南軍の船体であったと思われる。 元軍海底遺物 青玉製雌雄鹿像高さ3.45cm元軍の遺物。雌鹿と雄鹿を表した透かし彫りの彫刻である。兜や冠帽の頭頂部飾りに用いられたと考えられる。松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 獅子像松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 木印松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 磚(せん)重さ1kg・2kg・2.5kgの三タイプ元軍が使用したレンガ。用途としては船のバランスをとるためのバラストとしての機能や簡易の建築に利用したものとみられる。松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵
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海底調査
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「ブリタニック (客船・2代)」の記事における「海底調査」の解説
ブリタニックは海底に横倒しになって沈没している。船長のバートレットは、沈没の原因はUボートの魚雷によると考えていたが、第一次世界大戦後の英海軍の調査では結論がでなかった。ドイツ側に該当する攻撃記録はなかったが、U-73の艦長グスタフ・ジースは戦後、ブリタニックが触雷する3週間前に12個の機雷をケア海峡に敷設したと証言している。さらに沈没地点の南の海底域に、機雷の基部と思われる物体や本体の破片がソナーで確認され、敷設海域がドイツ側の記録と一致したことから、魚雷ではなく機雷によって沈没したと解明された。 1996年にケア海峡で本格的な探査が行われた。船首ウェルドック右側に非常に大きな破壊孔が発見されている。水深120メートルに沈む船体内部に入り、機関室とボイラー室を調査した結果、閉じるべき防水扉が数箇所、解放状態のまま発見された。敵潜水艦が出没する海域では扉を全て閉じることになっていたが、業務上、それでは不便きわまりないこと、浸水した時は扉の横にある手動レバーで閉じられることを理由に、解放したままにされたと思われる。 規則により全て閉じていたはずの舷窓が、多数、開いていたことも分かった。ブリタニックは元々、北大西洋航路用の船であり、冷房はなかった。暑い地中海航路では、ボイラー室の真上にあり海面に近いEデッキは、かなり蒸し暑かったに違いなく、そのため規則を破って多数の窓を開けたと推定される。これらの不始末はブリタニックの沈没を早めたと想像される。また、沈没の原因として石炭庫で粉塵爆発があったとも言われていたが、船体にその痕跡は認められなかった。
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