元寇での蛮行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:27 UTC 版)
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆」 元軍が目に留まる者を殺すため、島民の中には命惜しさから、赤子の泣き声が聞こえないように、愛する自分の子を刺し殺して逃げ隠れする者もあったと伝わる。 日蓮の建治元年8月の書簡では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》とある。 弘安の役後に、日本の捕虜となった元軍将兵のうち、江南軍(旧南宋)の兵は助命され庇護を受けたが、東路軍の高麗兵とモンゴル兵は一人残らず首を刎ねられたという。 近代に至っても、「ムクリ・コクリ」(蒙古・高句麗)が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほどで、その残虐行為は壱岐・対馬・北九州の人々に、計り知れない恐怖心を植えつけた。 「むくりこくり」を参照
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