元寇という呼称とは? わかりやすく解説

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元寇という呼称

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「元寇という呼称」の解説

「元」 モンゴル帝国5代皇帝クビライ日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古国皇帝」とあり、モンゴル帝国漢語自称であった「大蒙古国」(モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの)が初見される。これらの呼称1268年文永5年至元5年正月に、クビライの命によって高麗から派遣され使者が、大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在伝達したことで、日本側にも知られるようになった。『深心院関白記』『勘仲記』といった当時公家日記にも「蒙古」の呼称用いられている。 1271年12月18日文永8年至元8年)、クビライ国号漢語で「大元」(モンゴル語では「大元大モンゴル国」(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus))と改めるが、鎌倉時代日本では蒙古」という呼称一般化していたため、「元・大元」等の呼称用いられなかった。 江戸時代に入ると『元史』などの漢籍輸入され明朝における元朝の略称である「元」という呼称また、クビライ指して「胡主」・「胡元」といった遊牧勢力対する貶称(へんしょう)も用いられるうになる「寇」 「寇」とは、「外敵」という意味で、「寇(あだ)す」つまり「侵略する」を名詞表した文字である。歴史学者川添昭二は、この表現江戸後期出現した背景としては、アヘン戦争で清がイギリス帝国敗れたことや日本近海西洋列強船舶来航頻発したため、当時日本知識人の間で、「外夷」に対する「対外意識高揚があり、過去蒙古襲来についてもその文脈で見るようになった指摘している。 幕末流行した頼山陽の『日本外史』では、弘安の役について「元主(クビライ)、我が再び使者誅する聞き則ち憤恚して、大に舟師発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人合して范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」と表現している。

※この「元寇という呼称」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「元寇という呼称」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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