元寇 - 室町時代
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元寇が襲来した文永の役(1274年)によって博多の町は焼失した。再来を警戒して博多湾沿岸には元寇防塁が築かれる。防塁が築かれたことから博多の別名として「石城」の名が生まれる。元寇ののち1293年(永仁元年)に鎮西探題が設置され(現在の櫛田神社の近く)、大宰府に代わって九州統治の中心となる。鎌倉時代末期には、全国主要寺社の造営費を獲得するため、博多商人が幕府公認の下、しばしば元との間に交易船を往来させた(寺社造営料唐船)。 1333年(元弘3年)に後醍醐天皇が挙兵すると、菊池武時が鎮西探題北条英時を襲い博多の町を焼き払った。武時は少弐貞経や大友貞宗によって駆逐されるが、足利尊氏によって京都の六波羅探題が陥落したことが伝わると貞経や貞宗さらには島津宗久らは北条英時から離反、鎮西探題を滅ぼした。1336年(建武3年)、建武の新政に離反して九州へ落ち延びた足利尊氏は少弐頼尚・島津貞久・大友氏泰らとともに多々良浜の戦いにて菊池氏を破る。 足利義満治世の1371年(応安4年)に管領細川頼之によって今川貞世(了俊)が九州探題に任命され、懐良親王等南朝勢力の掃討、御家人の守護被官化に務めた。貞世はまた対馬、壱岐、松浦、五島列島を本拠地とした倭寇によって博多に売られたであろう高麗人捕虜を哀れみ、帰国させている。さらに、明からの倭寇討伐の要請などを受け、大内氏とともに倭寇を討伐し、幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に携わったが、讒言にて失脚した。 貞世の次に九州探題となった渋川満頼は、応永の外寇に際して博多商人宗金をして幕府との連絡を行い、博多商人の平方吉久(外郎の由来である陳宗敬の子)と妙楽寺住職の無涯亮倪を朝鮮に派遣し、李氏朝鮮使者の宋希璟が博多を訪れたときは自ら接待した。 足利義持は、私貿易を行っていた大内義弘を応永の乱で討ったのち、安芸出身といわれる博多商人肥富(小泉)の進言を受けて1401年(応永8年)に祖阿を正使、肥富を副使として明へ第1回遣明船を出してもいる。 この頃の博多商人は日明貿易や日朝貿易のみならず、琉球を経由して東南アジアとの貿易にも関わり、中でも道安という商人は琉球国王の名代として貿易を行った。明で買い付けた生糸は日本で20倍の価値になり、逆に日本の銅は明で4~5倍の価値になったという。また銅銭を輸入し、日本刀や硫黄などを輸出し、博多商人は巨万の富を得ていた。その様子は海東諸国紀にも記載されている。 渋川満頼が九州探題を辞したのち、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言、宗金など商人たちは大友氏の保護下で貿易を行う。当時の博多の町は、港がある北東部「息浜」(おきのはま)に6000戸、聖福寺・承天寺周辺の南西内陸部「博多浜」に4000戸あり、息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めていた。 日明貿易が再開した1432年(永享4年)、少弐嘉頼家臣・三原入道の家人と秋月満種家臣・原田種泰の家人が見物に来ていた博多祇園山笠の「追い山」の会場にて衝突、三原方50人余、原田方20人余の死者を出した。翌年には少弐家人と大内持世家人が博多で衝突。さらに翌年には大内家人と少弐家人が箱崎にて衝突している。この他にも守護大名同士や大身らは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。 1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は大内勢力と大友勢力の配下となる。
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