『高麗史』による戦況
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『高麗史』金方慶伝によると、元軍は三郎浦に船を捨てて、道を分かれて多くの日本人を殺害しながら進軍した。高麗軍三翼軍のうち都督使・金方慶直属の中軍が日本兵に衝かれるに至り、剣を左右に交えた白兵戦となったが、金方慶は少しも退かず、一本の矢を引き抜き厲声大喝すると、日本兵は辟易して逃げ出した。高麗軍中軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・李唐公・金天禄・辛奕等が力戦し日本兵を大いに敗った。戦場には死体が麻の如く散っていた。元軍の総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍中軍の働きに比べて何をもって加えることができるだろう」と高麗軍中軍の奮戦に感心した。 その後、高麗軍は元軍諸軍と共に協力して日本軍と終日、激戦を展開した。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた。やがて、日が暮れたのを機に、戦闘を解した。
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