『高麗史』の于山島とは? わかりやすく解説

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『高麗史』(1451)の于山島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)

于山島」の記事における「『高麗史』(1451)の于山島」の解説

1451年完成した高麗史』に、「鬱陵島は県のちょう東の海にある。新羅のとき于山国称した一説武陵や羽陵とも言われ百里四方ある。……一説には、于山武陵この二島互いに距離は遠くなく、天候清明であれば望み見ることができる。」と于山島記述見られる韓国側見解では、晴れていれば鬱陵島から竹島望めるので、この于山島独島竹島)と考えるのが自然だとする。一方日本側の見解では、現在の竹島のような遠く離れた無人小島の名に国名を使う訳がないとする。この文章表題鬱陵島となっており、また問題一文では于山島武陵島を同格表現しているが、本文全て鬱陵島内容で、現在の竹島を示すような内容書かれていない鬱陵島周辺には鬱陵島同程度の島は存在しないが、『太宗実録』に86人が住む于山島証言があるため、編者二島である可能性捨てきれず、一説として問題一文書いた可能性が高い。これらのことから、日本では朝鮮王朝鬱陵島近辺地理掌握しておらず、架空于山島から見た武陵島、武陵島から見た于山島、あるいは朝鮮本土から見た于山武陵鬱陵島)のことを風説に基づき書いた考えられている。 原文高麗史』巻五十八 地理欝陵島県正東海中 新時 称于山国 一伝武陵 一伝羽陵 地方百里 智證王十二年 来太祖十三年 其島人 使白吉 土豆献方物 穀宗十一年 王聞欝陵地広土肥 旧有州県 可以居民 遣溟州道監倉金柔立 往視 柔立回奏云 島中大山 従山頂 向東行海一万余歩 向西行一万三千余歩南行一万五千余歩北行八千余歩 有村基址七所石仏鉄鐘石塔 多生柴胡本石 然多岩石不可居 遂寝其議 一云 于山 武陵二島 相距不遠 風日清明則可望見 翻訳高麗史』巻五十八 地理鬱陵島のちょう東の海にある。新羅のとき于山国称した一説武陵や羽陵とも言われ百里四方(約40km)ある。智證王十二年から太祖十三年の間、その島の人は白吉を使い出し、その地の豆などを献上した。穀宗十一年、王は鬱陵の地が広く土地肥え、昔は民を居住させることができる州や県があったと聞いた。溟州道倉金監督として擁立し遣わせ、回奏を擁立し見に行かせたという。島の中央には大きな山があり、山頂から東に向かって行くと一万余りで海に至る。西に向かって行くと一万三千余り南に向かって行くと一万五千余り、北に向かって行くと八千余りだ村落の址が七ヶ所あり、石仏の鐘、石塔がある。柴胡石南花多く生え岩石多くあるので人が居住することができないが、何とかそこで寝ることにした。一説には、于山武陵この二島互いに距離は遠くなく、天候清明であれば望み見ることができる。

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