『高麗史』(1451)の于山島
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「于山島」の記事における「『高麗史』(1451)の于山島」の解説
1451年に完成した『高麗史』に、「鬱陵島は県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百里四方ある。……一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。」と于山島の記述が見られる。韓国側の見解では、晴れていれば鬱陵島から竹島が望めるので、この于山島を独島(竹島)と考えるのが自然だとする。一方日本側の見解では、現在の竹島のような、遠く離れた無人の小島の名に国名を使う訳がないとする。この文章の表題は鬱陵島となっており、また問題の一文では于山島と武陵島を同格に表現しているが、本文は全て鬱陵島の内容で、現在の竹島を示すような内容は書かれていない。鬱陵島周辺には鬱陵島と同程度の島は存在しないが、『太宗実録』に86人が住む于山島の証言があるため、編者は二島である可能性を捨てきれず、一説として問題の一文を書いた可能性が高い。これらのことから、日本では、朝鮮王朝が鬱陵島近辺の地理を掌握しておらず、架空の于山島から見た武陵島、武陵島から見た于山島、あるいは朝鮮本土から見た于山・武陵(鬱陵島)のことを風説に基づき書いたと考えられている。 原文 『高麗史』巻五十八 地理三欝陵島在県正東海中 新羅時 称于山国 一伝武陵 一伝羽陵 地方百里 智證王十二年 来降太祖十三年 其島人 使白吉 土豆献方物 穀宗十一年 王聞欝陵地広土肥 旧有州県 可以居民 遣溟州道監倉金柔立 往視 柔立回奏云 島中有大山 従山頂 向東行至海一万余歩 向西行一万三千余歩 向南行一万五千余歩 向北行八千余歩 有村落基址七所 有石仏鉄鐘石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寝其議 一云 于山 武陵 本二島 相距不遠 風日清明則可望見 翻訳 『高麗史』巻五十八 地理三鬱陵島 県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百里四方(約40km)ある。智證王十二年から太祖十三年の間、その島の人は白吉を使いに出し、その地の豆などを献上した。穀宗十一年、王は鬱陵の地が広く土地が肥え、昔は民を居住させることができる州や県があったと聞いた。溟州道の倉金を監督として擁立し遣わせ、回奏を擁立し見に行かせたという。島の中央には大きな山があり、山頂から東に向かって行くと一万歩余りで海に至る。西に向かって行くと一万三千歩余り、南に向かって行くと一万五千歩余り、北に向かって行くと八千歩余りだ。村落の址が七ヶ所あり、石仏や鉄の鐘、石塔がある。柴胡や蓬、石南花が多く生え、岩石が多くあるので人が居住することができないが、何とかそこで寝ることにした。一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。
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