『高野聖』まで
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1893年(明治26年)5月、京都日出新聞に真土事件を素材とした処女作『冠弥左衛門』を連載。紅葉の斡旋による。紅葉は新聞社の不評を理由にした打ち切り要請を説得し、慣れない鏡花にアドバイスを与えながら、ついにこれを完結させた。同年さらに『活人形』(探偵文庫)、『金時計』(少年文学)を発表。8月には脚気療養のため一時帰郷し、そのついでに京都、北陸に遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する。 1894年(明治27年)1月、父が逝去し、再び金沢に帰る。生活の術を失い、文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。『予備兵』『義血侠血』などを執筆し、紅葉の添削を経て読売新聞掲載。実用書の編纂などで家計を支えながら、1895年(明治28年)には初期の傑作『夜行巡査』(文芸倶楽部)と『外科室』(同前)を発表。「夜行巡査」は、『青年文学』において田岡嶺雲の賛辞を得、このおかげで『外科室』は『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されることになった。この年6月、金沢に帰り、祖母を見舞う。 脚気が完治せず体調は悪かったが、1896年(明治29年)にはさらに『海城発電』(太陽 (博文館))、『琵琶伝』(国民之友)、『化銀杏』(青年小説)を発表し、賛否両論を受けた。5月には金沢の祖母を引きとって一家を構え、旺盛に執筆を続け、ついに10月には読売新聞に『照葉狂言』の連載を始める。1897年(明治30年)に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年(明治31年)に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え、盛んに遊び歩く。1899年(明治32年)には『湯島詣』を春陽堂から書きおろし刊行。1900年(明治33年)『高野聖』(新小説)、1901年(明治34年)『袖屑風』(同前)、1902年(明治35年)『起請文』(同前)などを世に問う。
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