『高野聖』までとは? わかりやすく解説

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『高野聖』まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:44 UTC 版)

泉鏡花」の記事における「『高野聖』まで」の解説

1893年明治26年5月京都日出新聞真土事件素材とした処女作『冠弥左衛門』を連載紅葉の斡旋よる。紅葉新聞社不評理由にした打ち切り要請説得し慣れない鏡花アドバイス与えながら、ついにこれを完結させた。同年さらに『活人形』(探偵文庫)、『金時計』(少年文学)を発表8月には脚気療養のため一時帰郷し、そのついでに京都北陸遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する1894年明治27年1月、父が逝去し、再び金沢帰る。生活の術を失い文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。『予備兵』『義血侠血』などを執筆し紅葉の添削経て読売新聞掲載実用書編纂など家計支えながら、1895年明治28年)には初期傑作夜行巡査』(文芸倶楽部)と『外科室』(同前)を発表。「夜行巡査」は、『青年文学』において田岡嶺雲賛辞を得、このおかげで外科室』は『文芸倶楽部』の巻頭掲載されることになったこの年6月金沢帰り祖母見舞う。 脚気完治せず体調悪かったが、1896年明治29年)にはさらに『海城発電』(太陽 (博文館))、『琵琶伝』(国民之友)、『化銀杏』(青年小説)を発表し賛否両論受けた5月には金沢祖母を引きとって一家構え旺盛執筆続け、ついに10月には読売新聞に『照葉狂言』の連載始める。1897年明治30年)に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年明治31年)に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え盛んに遊び歩く1899年明治32年)には『湯島詣』を春陽堂から書きおろし刊行1900年明治33年)『高野聖』(新小説)、1901年明治34年)『袖屑風』(同前)、1902年明治35年)『起請文』(同前)などを世に問う

※この「『高野聖』まで」の解説は、「泉鏡花」の解説の一部です。
「『高野聖』まで」を含む「泉鏡花」の記事については、「泉鏡花」の概要を参照ください。

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