古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 03:07 UTC 版)
古代には伽耶の領域で、骨浦(コルポ)と呼ばれた。統一新羅時代の757年に骨浦県を改めて合浦県となり、義安郡の属県とされた。日本で「がっぽ」と読まれる合浦は、元寇における日本侵攻の基地として著名である。文永の役では1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。その7年後の弘安の役では(1281年・弘安4年・至元18年)5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航した。 1282年には会原県と改称され、金州に属する郡県の一つとなった。李氏朝鮮時代の1408年、会原県と義昌県(義安県から改称)が統合され昌原府となった。以来、朝鮮時代を通じて馬山浦は昌原府の一部であった。
※この「古代から近世まで」の解説は、「馬山市」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「馬山市」の記事については、「馬山市」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 03:43 UTC 版)
「バール (モンテネグロ)」の記事における「古代から近世まで」の解説
考古学的な発見により新石器時代以前よりバール周辺では人が暮らしていたことが確認されている。古代のイリュリア人の生活の痕跡も残され、バール市内の様々な場所で発見されている。古代ローマ期は町としてのバールはなかったが、6世紀にローマの要塞アンティパルガルが再建されたと考えられアンティバリウムの名で10世紀に初めて引用されている。その後、スラヴ人の侵入が進み9世紀には初めて教区が設立された。10世紀にはミハイロ王が支配するドゥクリャ公国が成立しバールはその中心でもあった。ドゥクリャ王国は周辺と激しい戦いを繰り広げ、歴史家によれば1077年公式にビザンティンから分離したと考えられている。その後は12世紀にかけ徐々にビザンティンの支配に代わっており、1166年から1183年再びビザンティンの支配となった。ビザンティン後はステファン・ネマニャによりアドリア海沿岸やバールはセルビア王国の版図に取り込まれて行った。14世紀頃になると頻繁に支配者が変わり、1443年から1571年にかけてはヴェネツィア共和国領アルバニア・ヴェネタであった。中世、バールは都市国家としてアドリア海南部の中心となり自治を謳歌し独自の都市権や硬貨の鋳造権を有していた。ヴェネチア支配の影響からバールでは18世紀まで一部でヴェネツィア語が使われていた。1528年になると初めてオスマン帝国が侵入し、1571年にはオスマンの支配下に入った。1878年までオスマンの支配は続いたが正教の大主教区は維持されていた。
※この「古代から近世まで」の解説は、「バール (モンテネグロ)」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「バール (モンテネグロ)」の記事については、「バール (モンテネグロ)」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 03:36 UTC 版)
7世紀後半の評制度化では、飽海評(飽海評、渥美郡)と呼ばれた。 郡名は阿曇連(あづみのむらじ)に由来すると伝えられている。伊勢国に近いため伊勢神宮の荘園である御厨・御園が多く存在した。垂仁天皇時代には、国造が三河国渥美郡の神戸を朝廷に寄進している(『太神宮諸雑事記』第一)。また『吾妻鑑』によると、建久10年3月23日(1199年4月19日)乙卯に、参河の国飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良胡御厨が存在している。 中世には一色氏が支配したが、応仁の乱後は田原城や二連木城を築いて渥美郡の支配力を強める戸田氏に対し、16世紀の初頭からは隣郡の宝飯郡から牧野氏が今橋城を築いて戸田氏と争った。度重なる今橋城(吉田城)の争奪戦に西三河の松平氏まで絡んでくるが、東から駿河国・遠江国を治める今川氏が松平氏・戸田氏・牧野氏をまるごと従えるようになったため、今川氏による支配で落ち着いた時期もある。 室町戦国時代には、奥郡という呼び方もある。文明6年11月1日の如光弟子帳で、「奥郡野田」と見える(上宮寺文書 / 岡崎市史6)。その他、戦国期から江戸初期の史料では、大津(老津)・神戸・伊良湖・堀切・弥熊などが奥郡の地名として見え、渥美半島一帯が奥郡と称されていたものと推定される。天文20年5月7日の今川義元判物によると「参河国奥郡神戸郷南方名職之事、右如前前公事年貢等令取沙汰、百姓職永可勤之并船二艘事」が本多正忠に宛行われている(摩訶耶寺文書/静岡県史料5)。 江戸期には吉田藩や田原藩や畑村藩などの変遷を経て廃藩置県を迎えた。 郡の北端(宝飯郡との境界)を流れる現在の豊川(とよがわ)は過去、時代ごと地域ごとにいくつかの名称があったとされ、古代における最下流域の渡津郷付近では「飽海川(あくみがわ)」と呼ばれていたことが、承和2年(西暦835年)に発令された『太政官符』によって確認できる。
※この「古代から近世まで」の解説は、「渥美郡」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「渥美郡」の記事については、「渥美郡」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:38 UTC 版)
地名の初見は、猿投神社『大般若経』巻70の奥書に「于時応永四年丁丑五月十三日 於尾張国智多郡堤田庄常滑郷宮坂草庵,□□□畢」とある。また、『言継卿記』弘治3年3月16日条に「とこなべ」、天正9年3月7日付越前竜沢寺勧化帳に「トコナベ」という名が見られる。 当市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。平安時代後期頃から中世にかけて当市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、北は青森県から南は鹿児島県まで、全国の中世遺跡において出土する。 室町時代には三河の守護である一色氏が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の港町である大野に大野城(宮山城)を築いた。のちに一色氏の被官である佐治氏が主家にかわって大野城主となり、佐治氏の下で大野は伊勢湾東岸の港湾として繁栄した。 戦国時代には、知多郡緒川(現・東浦町)の領主水野氏の一族が現市域中心部に常滑城を築き、大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分した。しかし常滑水野氏は本能寺の変直後に明智光秀に味方したことから没落し、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。また、常滑の焼き物も茶の湯が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。 江戸時代には、現市域の村々は尾張藩領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから廻船、酒造、木綿生産などの商工業が行われる町場的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。この時代には、かつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。
※この「古代から近世まで」の解説は、「常滑市」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「常滑市」の記事については、「常滑市」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:57 UTC 版)
トキの肉は古くから食用とされ、『本朝食鑑』(1695年)にも美味と記されている。しかし「味はうまいのだが腥(なまぐさ)い」とあり、決して日常的に食されていたのではなく、冷え症の薬や、産後の滋養としてのものであったとされる。「トキ汁」として、豆腐あるいはネギ、ゴボウ、サトイモと一緒に鍋で煮るなどされていたようである。しかし、生臭い上に、肉に含まれる色素が汁に溶出して赤くなり、また赤い脂が表面に浮くため、灯りの下では気味が悪くてとても食べられなかったため「闇夜汁」と呼ばれた。 また、羽は『須賀利御太刀』などの工芸品や、羽箒、楊弓の矢羽根、布団、カツオ漁の疑似餌などに用いられていた。 なお、トキは田畑を踏み荒らす害鳥であった。江戸時代において、あまりにトキが多く困っていたため、江戸幕府にトキ駆除の申請を出した地域もあったほどである。 先述の通り、1735年頃の文献では、北海道南部、東北、北陸、中国地方に分布していた。明治に入り、日本で肉食の習慣が広まり、また経済活動の活発化により軍民問わず羽毛の需要が急増したため、肉や羽根を取る目的で乱獲されるようになった。明治中期以降、狩猟に対しても様々な規制が行われたが、トキは規制・保護対象に含まれなかった。
※この「古代から近世まで」の解説は、「トキ」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「トキ」の記事については、「トキ」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 05:08 UTC 版)
刈羽郡の地域はかつては越中国古志郡に属していた。大宝2年(702年)に越後国に割譲され、平安時代に三島郡(みしまぐん)として古志郡から分離した。 その後、中世に古志郡からさらに山東郡(さんとうぐん、のち三島郡)が分離した頃から、三島郡(みしまぐん)は刈羽郡または苅羽郡と称するようになった。江戸時代初期に幕府は当郡の呼称を旧に復すると称して沼垂郡(ぬったりぐん)としたことがあった。しかし、沼垂郡は本来、越後国北部の阿賀野川以北を指した郡名であり、この改称は誤りであった。
※この「古代から近世まで」の解説は、「刈羽郡」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「刈羽郡」の記事については、「刈羽郡」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 05:12 UTC 版)
「三島郡 (新潟県)」の記事における「古代から近世まで」の解説
三島郡の地域はかつては古志郡の一部であったが、中世に信濃川左岸が分離して山東郡(さんとうぐん)と呼ばれるようになり、近世(江戸時代)初期には三島郡と表記するようになった。そのため西古志などと呼ばれることもあった。なお、三島郡が古志郡から分離される以前は、現・刈羽郡が三島郡(みしまぐん)と呼ばれていた。
※この「古代から近世まで」の解説は、「三島郡 (新潟県)」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「三島郡 (新潟県)」の記事については、「三島郡 (新潟県)」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 03:22 UTC 版)
当初は加賀郡(かがぐん)を称した。史書において「加賀郡」の名称が確認できるのは、731年(天平3年)の「天平二年越前国正税帳」が最古である。律令制により郡制が行われる以前では、「国造本紀」に「加我国造(かがのくにのみやつこ)」が越前国に属したとの記述があり、また平城京跡からは「越前国香々郡」と記された木簡も発見されている。「かが」の名称は柳田國男が「地名の研究」で芝原という地形からきているとしているが、異論もある。 823年(弘仁14年)、江沼郡と共に分国され加賀国となった。当時は手取川以北かつ大海川以南の地域であったが、同年6月4日に、加賀郡の浅野川以南を石川郡として分置した。室町時代頃から河北郡の名前が使われはじめ、1700年(元禄13年)に正式名称となった。
※この「古代から近世まで」の解説は、「河北郡」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「河北郡」の記事については、「河北郡」の概要を参照ください。
古代から近世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:57 UTC 版)
7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている(所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。
※この「古代から近世まで」の解説は、「入間郡」の解説の一部です。
「古代から近世まで」を含む「入間郡」の記事については、「入間郡」の概要を参照ください。
- 古代から近世までのページへのリンク