古代から近世の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 03:19 UTC 版)
「ギザの大ピラミッド」の記事における「古代から近世の伝承」の解説
大ピラミッドが盗掘された時期については、明らかになっていない。カイロから南に50㎞にあるリシュトのアメンエムハト1世の葬祭殿から、クフの名が刻まれているレリーフが発見されている。この事から遅くても中王国時代(紀元前2000年ごろ)には廃墟になっていたと考えられる。またギザの第4ピラミッドとも呼ばれるケントカウエス女王墓からは第12王朝のスカラベが発見されており、この時期に盗掘もしくは墓の再利用が行われたと考えられている。一方でギザのピラミッドについての伝承は語りつがれていた。中王国時代に書かれたとされるウェストカー・パピルスには「クフ王はヘリオポリスにあるトート神の聖域で秘密の部屋を探すことに時を費やした。それは自身の墓にも似たようなものを創るためである。」と記されている。また紀元前1427年ごろにアメンホテプ2世は大スフィンクスに石碑を建てたが、そこにはクフやカフラーの名が刻まれている。第26王朝には古王国時代の栄光を取り戻そうと、ギザで再び祭儀が行われるようになった。その祭儀の参加者には「クフの神官」という役職もあった。しかし、この頃には大スフィンクスをクフより前の時代に作られたとし、クフはこれを修復した王と考えられていた。 大ピラミッドの記録を残した最初の書物は、紀元前5世紀のヘロドトスの『歴史』である。ヘロドトスは神官からの伝聞として、暴君クフ、建造期間は30年、梃子を用いた建造法などを記し、長年にわたってこれが定説とされてきた。紀元前3世紀のプトレマイオス朝の歴史家マネトは、「クフが大ピラミッドを建造。神々を軽視、聖なる書物を著す」と断片的に記述した。 紀元前1世紀ごろ、ギリシアやローマの歴史家らはギザのピラミッドについて多くの著述を残した。ディオドロス・シクルスはピラミッドが斜路を用いて建造された墓であるとし「しかし王たちはそこに葬られる事は無かった」と記している。ストラボンは「大ピラミッドの内部には可動式の石材があり、それを持ち上げると玄室に降る通路がある」と内部構造について記述している。3世紀ごろから多くのキリスト教徒がエルサレム巡礼の途中訪れる観光地となった。しかし彼らは古代エジプト文明に興味を示さず出エジプトに関する事績を求めた。以来、ギザのピラミッドは「ヨセフの納屋」と見放されるようになった。 7世紀中頃にアラブ人がエジプトを征服した。820年頃にはカリフのアル=マムーンが大ピラミッドの内部に初めて侵入したという伝承が生まれて『千夜一夜物語』にも描かれるが、実際に盗掘を受けたのはこれより前と考えられており、現在の盗掘口もアル=マムーンが掘ったものかは定かではない。こうしたアラブ人による伝説は、15世紀の歴史家アル=マクリーズィーによって纏められ、その他には大ピラミッドには神官たちの科学と英知が納められていると見なされていた事などが記されている。12世紀ごろからギザのピラミッドは組織的な採石が行われるようになった。 14世紀から18世紀にかけて、再び多くの西洋人がエジプトにやってくる。彼らの目的は聖地巡礼であったが、エジプトは神秘に満ちた不可思議な国と見られてギザのピラミッドは欠かせない観光スポットとなった。しかし、ここでも変わらずピラミッドは、古代エジプト文明ではなく聖書やギリシア神話などの伝承と結びつけられていた。
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