古代から江戸時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:45 UTC 版)
「森町 (北海道)」の記事における「古代から江戸時代まで」の解説
紀元前4千年紀 - 砂原二ツ山や尾白内に縄文の人々が住んでいた。土器や石器が発見される(昭和38年)。 紀元前2千年紀 - 縄文文化が栄える。この頃に環状列石(北海道内では最大、全国的にみても3番目となる)が作られたと見られ、イカ形土製品も出土される。 古来より先住民族アイヌの集落が形成されていた。 1532年 - (享禄5年)青森県蟹田村から権四郎が旧砂原町地域に移住・開村し部落が形成された。 1560年 - (永禄3年)内浦権現神社創建、砂原岳(駒ヶ岳)中腹の岩窟内に三神奉祀。 1601年 - (慶長6年)上磯町の有川より千歳末吉が鷲ノ木地区に移住したのが和人の定住の最初と言われる。 1640年 - (寛永17年)駒ヶ岳が有史始まって以来の大噴火。直下の湾岸一帯に大津波が発生し、被害をもたらす。 1661年 - (寛文元年) 鷲ノ木地区の和人戸口が増加し、「鷲ノ木村」と称するようになった。一説によると1624年の可能性もある。 1666年 - (寛文6) 円空上人が、砂原村内浦神社に仏像1体を奉納。 1694年 - (元禄7年)駒ヶ岳噴火、火山雷を伴う大噴火。 1738年 - (元文3年)鷲ノ木村が本村となり、森・蛯谷古丹・棒美・本茅部・石倉を支村して村落が形成されていった。 1751年 - (宝暦元年)ニシンの漁場(茅部場所)として沿岸部に集落が形成された。 1757年 - (宝暦7年)この頃茅部場所では、加工技術が発達していなかったことから、豊漁だったニシンが大量に放置されていた。そのため、これを土中に埋め、その上に鯡供養搭を建てた。 1765年 - (明和2年)駒ヶ岳噴火。 1784年 - (天明4年)駒ヶ岳噴火。 1789年 - (天明9年)鎮撫隊の利用に供する為、馬20頭を砂原より海上絵鞆に送る。これをもって蝦夷地馬飼育の起源とする見解がある。また、このころ、砂原が茅部場所枝村鷲ノ木より別れ一村をなす。 1791年 - (寛政2年)菅江真澄が砂原村に来村する。 1796年 - (寛政8年) 英国船プロビデンス号が内浦湾に入り、噴火湾と命名。 1799年 - (寛政11年)東蝦夷地が幕府の直轄となり、砂原に分屯陣屋を設置する。 1805年 - (文化2年)加賀屋半左衛門が元濁川地区(濁川カルデラ)に温泉場の開設を幕府へ願い出、間宮林蔵が巡見に来て、温泉場の開発が始まる。 1856年 - (安政3年)南部藩により現砂原3丁目に砂原分屯所(南部陣屋)が作られていた。また同年駒ヶ岳が大噴火する。 1858年 - (安政5年)箱館六ケ所が箱館奉行所より正式に「村」となったのをきっかけに、森・尾白内が鷲ノ木村より独立し、森村・尾白内村が成立した。
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