古代から近世とは? わかりやすく解説

古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/24 23:55 UTC 版)

衝角」の記事における「古代から近世」の解説

歴史的には、紀元前古代ギリシアなどの軍船においてすでに衝角装備されていた。当時はまだ火器がなく、海戦といえば衝角敵船運動能力奪った撃沈するのが中心であった弓矢バリスタカタパルト等での射合い、あるいは軍船同士接近して敵船乗り移り白兵戦を行う方法もあったが、衝角戦が最も一般的であったそれ以外の国においても、衝角装備した、あるいは衝角装備しない軍船であっても体当たり海戦主要な戦法であった古代から帆船広く普及していたものの、風次第航行の自由度が大きく制限されるため、軍船では用いて人力動力中心であった日本では和船構造強度の点で外部からの衝撃弱かったため、体当たり戦法用いられなかった。 近世になって大砲軍艦搭載されると、衝角戦主流ではなくなった。これは大砲多数装備する事と引き替えに、(およびそれを動かす人員)の装備制限され軍船においても帆船主流となり、衝角戦実用性失ったからである。例えアルマダの海戦1588年)では、衝角戦仕掛けようとするスペイン海軍艦隊に対してイギリス海軍艦隊逃げ回り結果的に勝利をものにしている。 とはいえ艦載砲射程はまだ短く、また威力不足で船体完全破壊する事は不可であった。よって自立航行不可能なほどの損害与える事や、甲板上の兵士死傷させ戦闘力失わせるのが当時艦砲主目的であったのだが、まだ榴弾実用化されておらず砲弾は非炸裂であったため、小型大砲大量に装備して物量で補うしかなかった。そのため接近戦主流であり、接舷して海兵隊乗り込ませて白兵戦決着をつけることがしばしば行われる状況であり、衝角船体そのものへの破壊戦術としての効果期待され装備され続けた金属製衝角装備したギリシャ復元三段櫂船オリンピアスレパントの海戦1571年)。当時海戦では衝角戦術が用いられた。

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古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/18 14:20 UTC 版)

ヴェルデーリオ」の記事における「古代から近世」の解説

Verderio という地名は、おそらくは庭園」を意味するラテン語 viridarium に由来するローマ文明足跡は、考古学的な遺跡やケントゥリアティオ (it:Centuriazione) (土地方格設計とともに、この地域地名にも残されている。たとえば、Vicus Mercati(ヴィメルカーテ Vimercate)、Hiberna Regisベルナレッジョ Bernareggio)などである。紀元前222年執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルス率いられローマ軍は、この地でインスブリ人 (Insubri) を破った。 この地にはその後ランゴバルド人、ついでフランク人暮らしたことが、考古学的な調査から判明している。現在は市庁舎となっている Villa Gallavresi からは、10世紀さかのぼる城の遺構発掘されている。12世紀から14世紀にかけて、この街にはテンプル騎士団所在しコマンドリー騎士団所領)と Castel Negrino の城(現在はアイクルツィオ一部であるが、当時ヴェルデーリオ属していた)という二つ重要な拠点加え、Brugarola には農園置かれた。騎士団名簿には Dalmazio da Verderio という人物載せられている。1312年フランスフィリップ4世端麗王)によってテンプル騎士団解体されると、その資産マルタ騎士団引き渡されている。 フランス革命戦争第二次対仏大同盟)中の1799年4月28日当地ヴェルデーリオ戦いが行われた。オーストリア帝国ロシア帝国連合軍指揮官はVucassovich将軍)とフランス軍指揮官はSérrurier将軍)が衝突したこの戦闘において、フランス兵Villa Confalonieri に立てこもり降伏余儀なくされたが、戦死者3000人のほとんどはオーストリアであった勝者ははじめ解放者として迎えられたが、略奪放火破壊その他の行為によって人々失望させた。街にはこの悲惨な出来事記念する2つ銘板がある。

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古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 16:55 UTC 版)

枚岡」の記事における「古代から近世」の解説

平安時代には河内国河内郡平岡荘と呼ばれた荘園があり、『山槐記』の応保元年1161年9月17日条に「平岡恩智両庄如元為御厨領事」と記され平岡荘・恩智荘は大江御厨地であると主張して帰属問題があったが当時結論先送りされている。当地内には延喜式神名帳河内郡十座のひとつである枚岡神社がある。『大日本地名辞書』には讃良郡枚岡郷を勢力範囲としていた平岡氏が当地移ってきたと記されている。 室町時代には平岡郷と呼ばれ、『雑事記』文明17年2月29日条に「河内国河内郡平岡郷」と記されている。 江戸時代にはこの辺りは河内郡額田村豊浦村出雲井村となっている。

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古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:20 UTC 版)

アハイア県」の記事における「古代から近世」の解説

紀元前146年に、共和政ローマがこの地を征服し併合すると、テッサリア地方イピロス地方大部分アカルナニア地方除いたギリシア全土アカエア属州となった。そのために『新約聖書』においてもこの地域アカエアとして呼ばれたローマ皇帝アウグストゥスは、アカエア属州地理的にローマに近いためにアカエア属州元老院属州とした。 アカエア属州は、プラエトル役職経験した属州総督によって統治され州都コリントとされた。しかし、属州内にローマ兵は配置されず、古来からの宗教社会認められるなど、ローマ帝国の支配寛容的なものであったアウグストゥス帝の死後の紀元後15年には、アカエア属州マケドニア属州合併されドナウ川沿いのモエシア属州総督管轄する皇帝属州となった。しかし、44年国境変事起こり、再び分割された。 67年皇帝ネロは、ギリシアローマ帝国から政治的に自由であるべきだと宣言しギリシア人自治権得た。しかしその後ヴェスパシアヌス帝によって、アカエア属州自治権失い、再び元老院属州となった3世紀末のディオクレティアヌス帝の治世まで、アカエア属州ローマ帝国属州であり続けローマ帝国東西分裂すると、東ローマ帝国となった13世紀には、第4回十字軍によってアカイア公国建国されたが、15世紀半ばアカイア公国オスマン帝国によって征服された。16世紀末と17世紀にはヴェネツィア共和国による侵略受けたが、再びオスマン帝国支配する至った

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古代から近世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:28 UTC 版)

秩父神社」の記事における「古代から近世」の解説

律令制度崩壊により、秩父神社支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社次第衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。 社記および『風土記稿によれば天慶年間938年-947年)、平将門常陸大掾鎮守府将軍平国香戦った上野国染谷川合戦で、国香に加勢し平良文同国群馬郡花園村鎮まる妙見菩薩加護得て将門軍勢打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩厚く信仰し後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社勧請した。これが秩父妙見社創成である。 その後良文は下総国に居を移した下総の子孫が建立した千葉神社祭神妙見菩薩である。秩父土着した子孫秩父平氏呼ばれる武士団形成した鎌倉時代社殿落雷により焼失し再建する際に神社北東祭られていた妙見菩薩合祀し秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在秩父神社管理した以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え延喜式記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった江戸時代絵図では、境内中央妙見社があり、その社殿取り囲むように天照大神宮豊受大神宮神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。神宮司社は式内社である秩父神社衰微した姿であるといわれており、江戸中期儒者である斉藤磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について「この神祇地主にして妙見宮地借なるべし。(中略妙見宮は大祠にして秩父神祠小祠なり。諺にいへる借家貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評している。

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