古代から近世
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歴史的には、紀元前の古代ギリシアなどの軍船においてすでに衝角が装備されていた。当時はまだ火器がなく、海戦といえば衝角で敵船の運動能力を奪ったり撃沈するのが中心であった。弓矢やバリスタ、カタパルト等での射合い、あるいは軍船同士が接近して敵船に乗り移り白兵戦を行う方法もあったが、衝角戦が最も一般的であった。 それ以外の国においても、衝角を装備した、あるいは衝角を装備しない軍船であっても、体当たりは海戦の主要な戦法であった。古代から帆船は広く普及していたものの、風次第で航行の自由度が大きく制限されるため、軍船では櫓や櫂を用いての人力動力が中心であった。日本では、和船は構造強度の点で外部からの衝撃に弱かったため、体当たり戦法は用いられなかった。 近世になって大砲が軍艦に搭載されると、衝角戦は主流ではなくなった。これは大砲を多数装備する事と引き替えに、櫓や櫂(およびそれを動かす人員)の装備が制限され、軍船においても帆船が主流となり、衝角戦が実用性を失ったからである。例えばアルマダの海戦(1588年)では、衝角戦を仕掛けようとするスペイン海軍艦隊に対してイギリス海軍艦隊は逃げ回り、結果的に勝利をものにしている。 とはいえ、艦載砲の射程はまだ短く、また威力不足で船体を完全破壊する事は不可能であった。よって自立航行が不可能なほどの損害を与える事や、甲板上の兵士を死傷させ戦闘力を失わせるのが当時の艦砲の主目的であったのだが、まだ榴弾が実用化されておらず砲弾は非炸裂性であったため、小型の大砲を大量に装備して物量で補うしかなかった。そのため接近戦が主流であり、接舷して海兵隊を乗り込ませて白兵戦で決着をつけることがしばしば行われる状況であり、衝角は船体そのものへの破壊戦術としての効果を期待されて装備され続けた。 金属製衝角を装備した、ギリシャの復元三段櫂船「オリンピアス」 レパントの海戦(1571年)。当時の海戦では衝角戦術が用いられた。
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古代から近世
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Verderio という地名は、おそらくは「庭園」を意味するラテン語 viridarium に由来する。ローマ文明の足跡は、考古学的な遺跡やケントゥリアティオ (it:Centuriazione) (土地の方格設計)とともに、この地域の地名にも残されている。たとえば、Vicus Mercati(ヴィメルカーテ Vimercate)、Hiberna Regis(ベルナレッジョ Bernareggio)などである。紀元前222年、執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスに率いられたローマ軍は、この地でインスブリ人 (Insubri) を破った。 この地にはその後ランゴバルド人、ついでフランク人が暮らしたことが、考古学的な調査から判明している。現在は市庁舎となっている Villa Gallavresi からは、10世紀にさかのぼる城の遺構が発掘されている。12世紀から14世紀にかけて、この街にはテンプル騎士団が所在し、コマンドリー(騎士団の所領)と Castel Negrino の城(現在はアイクルツィオの一部であるが、当時はヴェルデーリオに属していた)という二つの重要な拠点に加え、Brugarola には農園が置かれた。騎士団の名簿には Dalmazio da Verderio という人物が載せられている。1312年にフランスのフィリップ4世(端麗王)によってテンプル騎士団が解体されると、その資産はマルタ騎士団に引き渡されている。 フランス革命戦争(第二次対仏大同盟)中の1799年4月28日、当地でヴェルデーリオの戦いが行われた。オーストリア帝国・ロシア帝国連合軍(指揮官はVucassovich将軍)とフランス軍(指揮官はSérrurier将軍)が衝突したこの戦闘において、フランス兵は Villa Confalonieri に立てこもり降伏を余儀なくされたが、戦死者3000人のほとんどはオーストリア兵であった。勝者ははじめ解放者として迎えられたが、略奪、放火や破壊その他の行為によって人々を失望させた。街にはこの悲惨な出来事を記念する2つの銘板がある。
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古代から近世
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平安時代には河内国河内郡に平岡荘と呼ばれた荘園があり、『山槐記』の応保元年(1161年)9月17日条に「平岡・恩智両庄如元為御厨領事」と記され、平岡荘・恩智荘は大江御厨地であると主張して帰属問題があったが当時は結論が先送りされている。当地内には延喜式神名帳に河内郡十座のひとつである枚岡神社がある。『大日本地名辞書』には讃良郡枚岡郷を勢力範囲としていた平岡氏が当地に移ってきたと記されている。 室町時代には平岡郷と呼ばれ、『雑事記』文明17年2月29日条に「河内国河内郡平岡郷」と記されている。 江戸時代にはこの辺りは河内郡額田村、豊浦村、出雲井村となっている。
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古代から近世
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紀元前146年に、共和政ローマがこの地を征服し併合すると、テッサリア地方とイピロス地方の大部分、アカルナニア地方を除いたギリシア全土がアカエア属州となった。そのために『新約聖書』においてもこの地域はアカエアとして呼ばれた。ローマ皇帝アウグストゥスは、アカエア属州が地理的にローマに近いために、アカエア属州を元老院属州とした。 アカエア属州は、プラエトルの役職を経験した属州総督によって統治され、州都はコリントとされた。しかし、属州内にローマ兵は配置されず、古来からの宗教や社会も認められるなど、ローマ帝国の支配は寛容的なものであった。 アウグストゥス帝の死後の紀元後15年には、アカエア属州はマケドニア属州と合併され、ドナウ川沿いのモエシア属州の総督が管轄する皇帝属州となった。しかし、44年に国境で変事が起こり、再び分割された。 67年に皇帝ネロは、ギリシアがローマ帝国から政治的に自由であるべきだと宣言し、ギリシア人は自治権を得た。しかしその後のヴェスパシアヌス帝によって、アカエア属州は自治権を失い、再び元老院属州となった。 3世紀末のディオクレティアヌス帝の治世まで、アカエア属州はローマ帝国の属州であり続け、ローマ帝国が東西に分裂すると、東ローマ帝国領となった。 13世紀には、第4回十字軍によってアカイア公国が建国されたが、15世紀半ばにアカイア公国はオスマン帝国によって征服された。16世紀末と17世紀にはヴェネツィア共和国による侵略を受けたが、再びオスマン帝国が支配するに至った。
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古代から近世
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律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと思われる。これに代わって登場するのが妙見社である。 社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。以来良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の創成である。 その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社の祭神も妙見菩薩である。秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。 鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で秩父神社を管理した。以降神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載の本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。 江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。神宮司社は式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、江戸中期の儒者である斉藤鶴磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」と評している。
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