古代から明治維新まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:59 UTC 版)
旧石器時代や縄文時代の生活の跡が確認されており、古くから人々が生活していたと考えられている。 古墳時代に作られたと推定される前方後円墳や大型円墳が確認されている。 奈良時代以降は、上神主・茂原官衙遺跡や多功遺跡といった河内郡の役所と考えられる遺跡が存在することから、河内郡の中心地として繁栄していたものと推定されている。 鎌倉時代に入ると下野宇都宮氏の勢力下に入り、宇都宮城の支城である上三川城や多功城が築かれ、多功氏や今泉氏、横田氏など宇都宮氏流庶家が宇都宮氏重臣としてこの地を領した。 戦国時代には、多功城が越後の上杉氏や小田原の後北条氏らの下野攻略に対する防戦の要となった。1558年(永禄元年)5月 - 上杉謙信の下野侵攻に対し、多功長朝・房朝父子ら多功軍が応戦、多功城攻め先鋒・佐野小太郎(佐野豊綱とも言われる)らを討ち取りこれを撃退、上野国白井まで追撃するも、北条氏康配下で岩槻の太田資正の仲介により和睦する(多功の戦い)。 1572年(元亀3年)- 北条氏政の命により秩父新九郎、松田左馬介ら連合軍2万が宇都宮に侵攻、これに対し、多功房朝ら多功軍と佐竹義重、小山秀綱、那須資胤ら宇都宮軍5千が多功で迎え撃ち、義重配下となっていた片野の太田資正・梶原政景父子の奇襲によりこれを撃退する。 1584年(天正12年)- 北条氏直の下野侵攻に対し、多功綱継が宇都宮軍の先陣として佐野沼尻に出陣、これを制する(沼尻の戦い)。 1585年(天正13年)- 北条氏直が再度下野に侵攻、多功綱継は多功にあって北条軍を圧し、宇都宮城下に迫った北条軍を退却させる。 1597年(慶長2年)10月 - 宇都宮家の後継者問題で宇都宮家重臣の芳賀高武が同じ宇都宮家重臣の今泉高光と対立、高光の居城・上三川城を攻略、上三川城は落城しこれが原因で秀吉の怒りを買い宇都宮家は改易、多功は廃城となった。 江戸時代には幕府、旗本、宇都宮藩、関宿藩等の所領となった。
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