古代から中世初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 21:56 UTC 版)
「ヴァルテッリーナ」の記事における「古代から中世初期」の解説
ヴァルテッリーナ(テッリーナ谷)という地名は、谷の中央部にあった古代の都市テッリウス(ラテン語: Tellius、現在のテーリオ)から来ているというのが確からしい説明であり、谷全体が Vallis Tellina(テッリウス谷)と呼ばれるようになったと考えられている。ほかには、シナノキ(ラテン語: Tilia)が多かったためという説、エトルリア人(ラテン語: Tirreni)と関係するという説などがある。 ともあれ、この谷の名は、Tellina Vallis として、6世紀初めのパヴィーア司教エンノディオ (it:Magno Felice Ennodio) の文書に初めて登場する。
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古代から中世初期
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「レッジョ・エミリア」の記事における「古代から中世初期」の解説
古代ローマ時代、レッジョはコンスルのマルクス・アエミリウス・レピドゥス(ピアチェンツァからリミニへ伸びるエミリア街道の建設を監督した人物)によって建設が始められた歴史ある地である。レッジョは司法行政の中心となり、最初はレギウム・レピディ(Regium Lepidi)と呼ばれ、その後単にレギウムと呼ばれた、ローマのフォルム(forum、集会所)であった。 ローマ時代のレギウムは、セクストゥス・ポンペイウス・フェストゥス、キケロらにだけ、エミリア街道の駐屯地の一つとして言及された。しかし、レギウムは繁栄した都市で、特権、司法権、芸術コレギアを持つムニキピウムであった。 1世紀、ラヴェンナのアポリナリスがキリスト教をレッジョへもたらした。313年のミラノ勅令後、レッジョに司教座の存在があったことが立証されている。440年、レッジョ司教座は西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世によってラヴェンナへ従属させられた。4世紀終盤、レッジョは聖アンブロジウスが荒廃した都市に含めるほどに荒れ果てていた。蛮族の侵入で荒廃はさらに増した。476年の西ローマ滅亡で、オドアケルの支配下に入った。489年、さらに東ゴート王国に支配された。後539年には東ローマ帝国のラヴェンナ総督領に属すが、569年にアルボイン率いるロンゴバルド王国に征服された。レッジョにはレッジョ公国が置かれた。 773年、フランク王国がレッジョを属国とし、カール大帝は市を治める宗主権を司教へ与え、781年には司教座管内が成立した。888年、レッジョは中世イタリア王国に譲渡された。889年、マジャル人が市に大きなダメージを与え、司教アッツォ2世を殺害した。これをきっかけに新城壁が建てられた。900年10月31日、イタリア王ロドヴィコ3世はレッジョの中心地にカストルム(castrum、城)を建てる許可を与えた。 1002年、レッジョ領は、パルマ、ブレシア、モデナ、マントヴァ、フェッラーラの各領同様に、トスカーナの辺境伯領に併合された。のちにこれをカノッサ女伯マティルデが獲得した。
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