モデナ=レッジョ公国
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- モデナ=レッジョ公国
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Ducato di Modena e Reggio
Ducatus Mutinae et Regii -
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←1452年 - 1796年
1814年 - 1859年→
→
(国旗(1830年 - 1859年)) (国章(1830年 - 1859年)) - 国の標語: Dextera Domini exaltavit me
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国歌: Gott erhalte Franz den Kaiser
神よ、皇帝フランツを守り給え
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1494年時点の北イタリアの地図
エステ家諸領地の位置は黄色 -
公用語 エミリア・ロマーニャ語、ラテン語
(17世紀まで)
イタリア語
(18世紀から)宗教 カトリック 首都 モデナ - 公
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1450年 - 1471年 ボルソ・デステ 1780年 - 1796年 エルコレ3世・デステ 1814年 - 1846年 フランチェスコ4世 1846年 - 1846年 フランチェスコ5世 - 変遷
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成立 1452年 フランスによる征服 1796年 再興 1814年 中央統合諸州へ統合 1859年
現在 イタリア
モデナ=レッジョ公国(モデナ=レッジョこうこく、イタリア語: Ducato di Modena e Reggio、ラテン語: Ducatus Mutinae et Regii)は、イタリア北西部に1452年から1859年まで存在したイタリアの国家である。ただし、1796年から1814年まではナポレオンによるフランス帝国の支配下にあった。この国家は1796年まではエステ家に、1814年以降はオーストリア=エステ家によって支配されていた。
歴史
エステ家による統治
1452年、ボルソ・デステは神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によって、モデナとレッジョの侯爵から公爵に昇格されたことでこの国家は成立した。さらに、1471年に彼が同じく統治していたフェラーラも公爵領となった(フェラーラ公国)。1508年、カンブレー同盟戦争でアルフォンソ1世はカンブレー同盟側につき、ヴェネツィア共和国と戦った。1597年にアルフォンソ2世が死ぬとエステ家の直系は絶えた。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、自身の甥にあたるエステ家傍系のチェーザレに公位を継承させた。しかし、チェーザレの父がアルフォンソ1世の庶子だったことから、嫡出子にのみ継承権を認めるとしていたローマ教皇クレメンス8世により、1598年にフェラーラ公国は教皇領として没収された。三十年戦争が勃発するとフランチェスコ1世・デステはスペイン側についた。その後、公国はスペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争に巻き込まれる。1796年、フランス帝国による侵攻でエルコレ3世・デステはヴェネツィア共和国への亡命を強いられ、公国は一時滅亡した。
オーストリア=エステ家による統治
1814年、ナポレオンによるイタリア支配が終わると、モデナ公国はオーストリア帝国支配下でオーストリア=エステ家により復活したが、1859年にサルデーニャ王国によるリソルジメントにより消滅した。
モデナ=レッジョ公の一覧
脚注
参考文献
関連項目
レッジョ公国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/26 21:30 UTC 版)
1452年、ボルソが神聖ローマ皇帝フェルディナント3世からレッジョ・モデナ公の称号を獲得した。ボルソの後継者、エルコレ1世・デステは市に過酷な手形を課し、詩人マッテオ・マリア・ボイアルドを知事に任命した。のちに有名なイタリア人作家フランチェスコ・グイッチャルディーニが知事に任命された。1474年、偉大な詩人ルドヴィーコ・アリオストが郊外で誕生した。 1513年、レッジョは教皇ユリウス2世へ譲渡された。1523年9月29日に教皇ハドリアヌス6世が死去した後、レッジョはエステ家の元へ戻った。1551年、エルコレ2世・デステは、城壁の再建計画にそって市の郊外を壊した。16世紀終わり頃、有名な市のベアタ・ヴェルジーネ・デッラ・ギアラ聖堂建設が、奇跡が起きたとされる場所で始まった。 エステ家支配は1796年まで続いた(1702年、1733年から1734年の間の短期の中断を挟む)。
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