ルクレツィア・バルベリーニとは? わかりやすく解説

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ルクレツィア・バルベリーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 14:39 UTC 版)

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ルクレツィア・バルベリーニ
Lucrezia Barberini
モデナ=レッジョ公妃
在位 1654年 - 1658年

出生 (1628-10-24) 1628年10月24日
教皇領ローマ
死去 (1699-08-24) 1699年8月24日(70歳没)
モデナ=レッジョ公国モデナ
埋葬 モデナ=レッジョ公国モデナ
結婚 1654年10月14日 サントゥアリオ・デッラ・サンタ・カーザ
配偶者 フランチェスコ1世・デステ
子女 リナルド
家名 バルベリーニ家
父親 タッデオ・バルベリーニ
母親 アンナ・コロンナ
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ルクレツィア・バルベリーニLucrezia Barberini, 1628年10月24日 - 1699年8月24日)は、イタリアモデナ公フランチェスコ1世・デステの3番目の妻。

生涯

教皇ウルバヌス8世の甥にあたるパレストリーナタッデオ・バルベリーニ英語版と、その妻でパリアーノ公フィリッポ1世・コロンナ英語版の娘であるアンナ・コロンナ英語版(1601年 - 1658年)の間の第1子、長女[1]

1654年10月14日、ロレートサントゥアリオ・デッラ・サンタ・カーザにおいて、フランチェスコ1世と結婚した[2]。夫は既にマリーア・ファルネーゼとその妹のヴィットーリア・ファルネーゼと死別し、これが3度目の結婚であった。この縁組は、カストロ戦争英語版で互いに敵方について戦ったエステ家バルベリーニ家英語版の間の対立関係を解消するための政略結婚だった[3]。夫妻の間には1人息子のリナルド(1655年 - 1737年)が生まれ、リナルドは1694年にモデナ公爵家の家督を継いでいる。

脚注

  1. ^ Worldroots: Barberini
  2. ^ Papal Genealogy: The Families And Descendants Of The Popes by George L. Williams (McFarland, 2004)
  3. ^ Penny cyclopaedia of the Society for the diffusion of useful knowledge, Volume 3 (C. Knight, 1835)



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