古代からローマ時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:53 UTC 版)
「テッサロニキ」の記事における「古代からローマ時代まで」の解説
テッサロニキはカッサンドロスにより紀元前315年頃に創建されたカッサンドロスは妻のテッサロニカの名にちなみ、テッサロニケーと名付けたが、テッサロニカはアレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘である。マケドニア王国支配下のテッサロニキは徐々に都市としての重要性が高まっていった。 マケドニア王国が紀元前168年に倒れると、テッサロニキは共和政ローマの自由都市(英語版)となり、ディラキウムとビュザンティオンを結ぶ エグナティア街道に面した交易の要衝となり、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。テッサロニキはまたバルカン半島を南北に大モラヴァ川やアクシオス川に沿って走る街道の南端でギリシャとバルカンの諸都市を結んでいた。テッサロニキは後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり 、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。ローマ帝国にあったテッサロニキはキリスト教の拡大の中心として重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。 ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場 (en) 、ガレリウスの凱旋門、ロトンダなどの建設を命じた。 379年、ローマのイリュリア県 (en) は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュリア県の首府となった。390年、ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)476年に西ローマ帝国が倒れると (en) とテッサロニキは東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。
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