古代からフランク王国まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:10 UTC 版)
「シテ宮殿」の記事における「古代からフランク王国まで」の解説
考古学的発掘調査では、紀元前5000年から鉄器時代の始まりまでにシテ島で人間が暮らしていた痕跡が発見されたが、住んでいた民族や彼らの首都として使用していたという証拠は見つかてない。しかし、ローマ人が紀元前1世紀にパリシイ族を征服した後、島は急激に発展していった。 Lutetia と呼ばれるローマの町の大部分と公会広場は左岸にあり、大きな寺院は島の東端に置かれた。そこには今日、ノートルダム大聖堂が建てられている。島の西端は住宅地であり、ローマ政府か知事の宮殿が置かれた。宮殿は城壁に囲まれたガロ・ローマ時代の要塞である。西暦360年には、知事フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスが、この地に居た時にローマ皇帝となった。 6世紀に始まり、フランク王国の最初の王朝であるメロヴィング朝の王たちはパリに居るときの住居として宮殿を使用した。初代国王クローヴィス1世は508年から511年の死まで宮殿に住んでいた。カロリング朝となると帝国の東側(メス、アーヘン)に遷都し、それ以降パリを重視していない。 9世紀の終わりに、ヴァイキングによる連続した侵略が街を脅かした後、西フランク王国の初代国王シャルル2世によって壁は再建され強化された。987年7月3日にカロリング朝が断絶したことにより、パリ伯ユーグ・カペーがカペー朝を開き王位についた。ユーグ・カペーらカペー朝の王族は、宮殿をしばらくの間居城としたが、王たちはパリ以外のバンセンヌ、コンピエーニュ、オルレアンにも居城を持っていた。王国の主要機関などは、王の行くところには常に付き従った。
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