古代から19世紀まで
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最初のブダペスト周辺の集落はケルト人により1世紀に形成された。その後、ローマ人により占められるようになりローマの集落はアクインクムとして106年に低パンノニア(英語版)の 中心都市となった。ローマ人は要塞化された駐屯地に道路や円形劇場、浴場、床暖房を備えた住居などを建設した。829年の和平条約によりパンノニアはオムルタグのブルガリアの軍が神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ1世に勝利したことから版図に加えられた。ブダペストでは2つのブルガリアの軍境が生じブダとペストの2つの河岸には要塞があった。アールパードに率いられたハンガリーの人々は9世紀になって今日のブダペスト周辺に定住し、後に本格的にハンガリー王国が創建された。研究ではおそらくアールパード朝の初期の居城がブダペストになった場所の近くにあり中央主権的な力であったとされる。 タタール(モンゴル)による侵略が13世紀に起こり、平原での防御は難しいことが直ぐに判明した。ベーラ4世は街を囲む石の城壁を補強するよう命じ、自らの王宮もブダの丘の一番上に据えた。1361年にブダはハンガリー王国の首都になった ブダの文化的な役割はマーチャーシュ1世の時代、特に重要であった。ルネサンスは大きな影響を街に与えている。マーチャーシュの図書館であるコルヴィナ文庫 Bibliotheca Corviniana はヨーロッパの歴史年代記、哲学、15世紀の科学など多数の蔵書があり、バチカン図書館に次ぐ規模があった。後にハンガリーでは最初の大学がペーチに1367年に設立され、1395年に2つ目がオーブダに設立されている。1473年に最初のハンガリー語で書かれた書物がブダで印刷された。1500年頃のブダには約5,000人が住んでいたとされる。 オスマンのブダでの収奪は1526年に起こり、1529年には包囲され1541年に完全に侵略された。オスマン帝国領ハンガリーの時代は140年以上にわたって続いた。トルコにより多くの優れた浴場施設が街には造られている。オスマン支配下では多くのキリスト教徒はイスラム教に改宗している。それまで多くを占めたキリスト教徒は数千まで減り、1647年には70人を数えるまで減った。トルコに占領されなかった西側部分はハプスブルク君主国の王領ハンガリーであった。 失敗に終わったブダ包囲の2年後の1686年、一新された戦闘が始まりハンガリーの首都に入って行った。この時、欧州各地から集められた倍の勢力の神聖同盟の74,000の兵士や義勇兵、砲手、将校などのキリスト教勢力がブダやその後の数週間でティミショアラ付近を除いて全ての以前のハンガリーの領土であった地域をトルコから奪い返し再征服した。1699年、カルロヴィッツ条約により領土が変わり正式に認められ、1718年全てのハンガリー王国の領域はトルコ支配から除かれた。街は戦いの間破壊された。ハンガリーはハプスブルク帝国に併合されている。 19世紀、ハンガリー人は独立への闘争 と近代化が占めていた。ハプスブルクに対する反発が始まり、1848年にはハンガリー革命が起こるが1年後に破れている。 1867年のアウスグライヒはオーストリア=ハンガリー帝国の誕生をもたらした。 ブダペストは二重君主制の一方の首都となった。ブダペストの歴史の中で第一次世界大戦まで続く2番目に大きな街の開発に道を開いたのはこの歩み寄りによる。1873年、ブダとペストは公式に合併し古いブダであるオーブダも合併され新しい大都市ブダペストが誕生した。ペストは国の行政や政治、経済、交易、文化の中枢へと劇的に成長した。民族的にもマジャル人がドイツ人を追い越したが、これは19世紀半ばにトランシルバニアやハンガリー大平原からの大規模な流入人口による。1851年から1910年にかけマジャル人の割合は35.6%から85.9%に増加し、言語の面でもハンガリー語がドイツ語に代わり主要な言語になった。ユダヤ人人口のピークは1900年で23.6%を占め、19世紀から20世紀の変わり目にはユダヤ人の大きなコミュニティが隆盛し、ブダペストはしばしば「ユダヤ人のメッカ」と呼ばれた。
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古代から19世紀まで
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すでにローマ時代には、マイン川は水上交通路として利用されていた。アウグストゥスやティベリウスによってローマ帝国が拡張していった時代には、マイン川は北ドイツのリッペ川とともに2つの主要なゲルマニア侵攻ルートの一つであった。マイン川がライン川に注ぐ河口の向かい側にローマ人がマインツを築いたのもこの川筋が戦略上決定的な重みを持っていたためである。 小さな支流のニッダ川沿いにあるローマ人の入植地であるニーダ(現在はフランクフルトのヘッデルンハイム市区内)からボートの港跡が発見された。ニッダ川やマイン川を介して、ライン川右岸のcivitas taunensium(ニーダはその首邑であった)とマインツの間で商品の輸送がなされていた可能性がある。 出土品からも文献からも中世にはマイン川の航行が重要であったことがわかる。多くの入植地が、荷物の積み下ろしおよび商取引か、あるいは通行税徴収によって発展した。カール大帝は、マイン川とドナウ川の間に運河を設けるプロジェクトに固執した。しかし当時は、技術的な困難を克服することはできず、この計画は頓挫した。この時の、Fossa Carolina(カールの溝)の跡がトロイヒトリンゲン付近に見られる。 中世の船は、排水量10から20tで、1日に100kmほど航行することができた。船の操舵は竿か、曳いてもらうかしかなかった。そこで、30kmほどの間隔で宿営地が設けられた。夜間は航行が許されなかったので、船乗りは岸辺に着けなければならなかった。 12世紀からフランクフルトとマインツの間に Marktshiffという定期船が運航し始めた。14世紀からは、2隻の船で1日おきに上り下りするようになった。この船は、人や貨物あるいは郵便を運んだ。フランクフルトのファールトーア前を毎日10時に出発した。マインツまでの所要時間は約7時間から9時間ほどであった。1391年に皇帝ヴェンツェルは、Marktschiffに関する裁判権を自由都市マインツに与えた。また1474年には、Marktschiffに対する権利はマインツ選帝侯が有していた。フランクフルトはMarktschiffに対する権利を喪失したのである。 定期船であるMarktchiffに対して、自由航路はどちらかといえばあまり重要ではない。1337年以後フランクフルトには船員のツンフトは存在しなかった。少数の船員達は同時に果実商人でもあった。1602年から、春(バラの日曜日)から秋(聖ミカエルの日)までの間、ハーナウからフランクフルトへのMarktschiffが運航されることになったが、この権利はハーナウ伯が有していた。
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