古代から18世紀まで
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「ホルツミンデン」の記事における「古代から18世紀まで」の解説
ホルツミンデンは、多くのコルヴァイ修道院の寄進記録簿に832年に初めて記録され、Holtesmeni、Holtesmini、Holtesmynne といった名称で記述されている。この地名は、エドヴァルト・シュレーダー教授の著書「Deutsche Namenkunde」(1938年、ゲッティンゲン)の主張によれば、"menni" は古代ゲルマン語で「小川」を意味しており、全体では「森の小川」を意味する名称であるとしている。ただし、この集落は現在の中核市区ではなく、1922年に合併したアルテンドルフ(1272年に antiqua villa = 古い村と記録されている)を指していた。この村は、ニーダーラインからヴェストファーレンを通って東(ブラウンシュヴァイク、さらにはライプツィヒ)へ向かう街道がヴェーザー川を渡る場所に設けられた大きな定住地であった。アルテンドルフの近くに、おそらく1197年から1202年までの間にエーファーシュタイン伯の市場町・関税所として nova plantatio(新しい町)が建設された。その計画的な町の構成は現在も明らかに見て取ることができる。 1245年に Holtesminne(ホルツミンデン)の都市権がエーファーシュタイン伯のオットー2世によって認められた。1240年以降はヴェーザー川沿いに城が築かれた。1394年にはコルヴァイ修道院とエーファーシュタイン伯との間で Borchfrede to Holtesmynne が締結された。 16世紀末には城は放棄され、結局1860年に解体された。ホルツミンデンは、多くの他の都市がそうしたような塔や市壁で囲んで武装を強化することなく、昔ながらの簡素な防衛施設(土塁と柵)で十分としたのである。 1235年に制定された諸侯権に関する国法上の認識についての激しい議論から、ヴェルフ家と1408年にエーファーシュタイン伯から離反したホムブルク家がヴェーザー川沿いを侵出してきた。16世紀初め以降、この街は専らブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のヴォルフェンビュッテル系の所有地となった。 1540年4月18日、コルヴァイ修道院の依頼により Stettlin Holzmin は皇帝カール5世の保護を受けた。 1565年に、現在もある市場の西側に、切妻造りの市庁舎が建設された。ここには市裁判所、金庫、ホール、レストランがあった。この建物は度重なる戦乱や旧市街の火事を耐えてきたが、1821年に老朽化のため取り壊された。 その後、この街は隣接するヘクスターに対して経済的優位に立とうとする試み(1619年に両者の間に初めて木製の橋が架けられたが、1620年の雪解けの氷により破壊された)が行われたが、三十年戦争で停滞した。ホルツミンデンは1640年に皇帝軍に攻撃され、火を付けられ、なかなか立ち直ることができなかった。街の再建にはクロアチアからの手工業職人が大きく寄与した。 ホルツミンデンは、1742年 - 1763年に在職した上級市長ヨハン・ゲオルク・フォン・ランゲンや、アーメルングスボルン修道院学校と市の学校との連携などにより、18世紀中頃からやっと目的の明確な建築上、経済上の振興が再開され、中でも1745年に製鉄所が設立された。 宗教上では、論理的な神学者で数学者としても重要な市司祭で、1775年から1779年までアーメルングスボルン修道院の名目上の院長を務めたヨハン・フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヘーゼラーが活動を続けていた。1831年、ドイツ初の、現存する最古の建築専門学校が郡の建築監督官フリードリヒ・ルートヴィヒ・ハールマンによって設立された。この学校は専門大学となり、2000年からは HAWK専門大学ヒルデスハイム・ホルツミンデン・ゲッティンゲンと称している。 1754年4月に「Herzogliches Leyhaus」(公立の質屋)が市内に設けられた。これは1765年からブラウンシュヴァイク公の公営銀行となり、1970年以降はNORD/LBに統合された。
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古代から18世紀まで
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古代ギリシアの哲学者、一般に最初の哲学者とされる、紀元前6世紀頃の人物ミレトスのタレスは、万物の根源アルケーを探求する中で「アルケーは水である」と述べたと伝えられている。 同じく古代ギリシアのエンペドクレスは、火、空気、水、土(古代ギリシア語: πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη、ギリシア語: φωτιά, αέρας, νερό, γη、羅: ignis, aer, aqua, terra)を4つのリゾーマタ(古代ギリシア語: ῥιζὤματα、「根の物質」の意で今日の元素のこと)とし、それの集合や離散によって自然界のできごとを説明する、いわゆる四元素説を唱えた。これはアリストテレスに継承された。 古代インドでも、地、水、火、風 およびこれに空を加えた五大の思想が唱えられていた。また中国においても、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成るとする五行説が唱えられた。 つまり、洋の東西を問わず、水は、基本的な4~5種の元素の1つだと考えられていた。こうした水の理解は、2000年以上、18世紀後半の時点でも、ごく一般的であった。 こうした理解に変化が生じ始めたのは18世紀末である。人類の歴史の中で見ても、ごく最近のことである。18世紀末に、キャベンディッシュが、金属と酸とが反応した時に、軽い謎の気体(現在では水素と呼ばれているもの)が発生し、それは簡単に燃えて水になることを発見した。また、ラボアジエが、この燃焼で化合する相手が空気中の酸素であることを確かめた。これによって「水は元素ではなかった」という考え方が登場した。ただし、ラボアジエの実験があっても、人々の考え方が直ちに変化したわけではない。人々や学者らもおおむね四元素の考え方をそれまでどおり用いていた、と科学史家たちは指摘している。18世紀までの文献に現れる「aqua」「water」「水」などは、基本元素としての水であると理解するのが妥当である。
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