古代から中世の奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:06 UTC 版)
詳細は「古代ギリシアの奴隷制」を参照 古代ギリシアにおいては、戦争捕虜が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀のマンティネイアの戦いまでは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港に運ばれて戦利品とともに売られた。スパルタのアゲシラオス2世がその場での競売を考え出し、以後は軍隊に代わって従軍する奴隷商人が担った。古代ギリシアの都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷(ヘイロタイ)が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣闘士となりコロッセウムで戦いを演じさせられた者もいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。 奴隷 · 強制労働 種類役身折酬 · 人身売買ピオネージ(英語版) · 懲役性的奴隷 · 賃金奴隷 歴史歴史(英語版) · 古代(英語版)アステカ(英語版) · ギリシアローマ · 中世欧州(英語版)スレール · ホロープ(英語版) · 農奴奴隷船 · ガレー船奴隷(英語版) 宗教聖書(英語版) · ユダヤ教(英語版)キリスト教 · イスラム教 反対運動 · 解放年表(英語版) · 奴隷廃止論補償解放(英語版) · 奴隷の反乱(英語版)奴隷体験記地下鉄道 表 話 編 歴 古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。アテナイの奴隷は市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令施行以前まではローマ市民権を得ることによって自由人になる(解放奴隷)道が開かれていた。鉱山労働者や家庭教師など奴隷の仕事は様々であり、言ってみれば「職業と就職先を自分で決定する権利が無い労働者」と言ってよい存在だった。娼婦や剣闘士のような、特定の主人に仕えない自由契約の奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。 中世においてはヴァイキングによりスラヴ人(サカーリバ)が、またアッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。それら奴隷とされたトルコ人は生産活動に従事するのではなく、主に奴隷兵士として徴用された者も多かった。また、マムルーク朝、奴隷王朝の名はマムルーク(奴隷兵士)を出自とする軍人と、その子孫に由来する。 中世における世界の奴隷売買の中心地と言えたイスラム世界においては、その奴隷のほとんどがゲルマン人、スラヴ人、中央アジア人およびバルカン人で、黒人は少数であった。奴隷を意味する英語の"Slave"はスラヴ人に由来する。西欧を例にとれば、ヴェルダンではアラブ諸国向けの宦官の製造が町の最も活発な産業部門という時代もあった。中世のイタリア商人は黒海において奴隷貿易を行ない、スラヴ人、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人、タタール人の奴隷が、アレクサンドリア、ヴェネツィア、ジェノヴァなどへ運ばれた。ジェノヴァの商人は、カッファの後背地で奴隷狩を行なった。1317年に教皇ヨハネス22世は、ジェノヴァに対して、異教徒に奴隷を供給して力を強めることがないようにと警告をした 「奴隷」の代名詞が黒人(いわゆるブラックアフリカ諸民)になったのは大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって、それまでの「奴隷」の代名詞は主にゲルマン人とスラヴ人であった。
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