古代から中世盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 04:06 UTC 版)
この都市のある地域には、おそらく紀元前7世紀ごろにはエトルリア人が定住していたとみられる。グアラスタッラの都市の名が初めて史料に登場するのは中世初期の864年のことで、イタリア王ロドヴィコ2世が妻のエンゲルベルガに与えた財産の中に、グアスタッラの望楼 "posto di guardia" の名が見られる。ランゴバルド人は、マントヴァを支配した東ローマ帝国に対抗して、この都市を要塞化した。 11世紀、教皇派と皇帝派の争いの中で、グアスタッラはしばしば支配者を変え、さまざまな封建領主が治めた。グアスタッラが都市として重要な役割を演じるようになるのは、カノッサ家 (it:Canossa (famiglia)) の支配下、教区教会(教皇ウルバヌス2世によって司教区が設定された)を中心とする中心市街地が建設されてからで、ポー川に面した肥沃な土地を擁し、ポー川の渡渉点としてその戦略的な位置が着目されるようになった。1102年、トスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサは、グアスタッラをピアチェンツァのサン・シスト修道院に寄進した。その後この都市はクレモナ市や、コッレッジョの僭主(シニョーレ)ジベルト3世・ダ・コッレッジョ (it:Giberto III) の支配を受けた時期を経て、ヴィスコンティ家(ミラノ公国)が1402年まで占領し、その後はテルツィ家 (it:Terzi (famiglia)) が支配した。
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