佐治氏とは? わかりやすく解説

佐治氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/24 08:56 UTC 版)

佐治氏(さじし)は、日本の氏族のひとつ。


  1. ^
    「佐治氏城跡は小佐治村の北山上にあり、城殿という。残礎なお存せり。康平5年(1062年)、上総介平維時の子・業国はじめて佐治郷を領し、四郎左衛門為行に至りて佐治氏と改む。その裔・為定、六角氏に仕え、城を築きてこれによる。美作守となる。その後、越前守為重、美作守為政を経て、織田信長に属し、蒲生郡市子荘羽田荘の代官を兼ぬ。それより越前守為之、美作守為祐に至り衰亡す」 — 『名勝記』、[1]
  2. ^
    「佐治駿河守・近江国甲賀郡より来たり、この地に居城して近辺を領知す。その子上野介為貞、その子八郎信方(織田信長妹婿)、その子與九郎某まで、4代相続のよし、尾陽雑記にいえり」 — 『尾張志』、[2]
    「平姓。紋軍扇。為綱(伊佐野と号す。江州甲賀より行きて、はじめて尾州大野に住む。法名道忠)─為勝(尾州大野に住む)─為次(対馬守、住尾州大野、大力なり)─為平(佐治左馬允と号す。住尾州大野、息八郎は信長公の外族たり、ゆえに信長公の旗下に属す)─為興(佐治八郎、後に信方と改め、尾州大野に住す。信長公の妹婿となる。天正2年甲戌9月28日、勢州長島において討死、22歳)─一成(佐治與九郎と号す。尾州大野に住して、6万石を領し、信雄公、家康公の両将の旗下に属して、人数を尾州小牧に出す。これにより、秀吉公・ご立腹ありて、大野の所領を没収なされ候につき、勢州安野津に赴く(5千石を授かる、無役)その後、信包・丹州柏原に居城、與九郎・信包に属して、柏原に住し、後剃髪して巨哉と号す。加州より孫主水(後に與右衛門、1250石を給わる)を呼び取り、巨哉・隠居す。寛永11年甲戌9月26日卒、年66)」 — 『佐治系図』、[2]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 太田 1934, p. 2613.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 太田 1934, p. 2614.
  3. ^ 宮本 2010, pp. 97-98.


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