『元史』による戦況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
『元史』では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。 『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」 としている。 また、『元史』左副都元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」 とのみ記載し、劉復亨が戦闘で負傷し戦線を離脱していたことには触れていない。 『元史』右副都元帥・洪茶丘伝では「都元帥・クドゥン(忽敦)等と舟師2万を領し、日本を征す。対馬・壱岐・宜蛮(平戸島か)などの島を抜く」 とあり、文永の役における元軍の戦果を対馬、壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、博多湾上陸以後の状況については触れられていない。 その他、『元史』世祖本紀では文永の役の元軍の軍容について「鳳州経略使・ヒンドゥ(忻都)、高麗軍民総管・洪茶丘等の将が屯田軍及び女直軍(女真族の軍)、并びに水軍、合せて15,000人、戦船大小合せて900艘をもって日本を征す」 と記している。
※この「『元史』による戦況」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「『元史』による戦況」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。
- 『元史』による戦況のページへのリンク