第一次日本侵攻計画とは? わかりやすく解説

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第一次日本侵攻計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第一次日本侵攻計画」の解説

しかし、クビライは翌1273年文永10年至元10年)には前言翻し日本侵攻計画し侵攻準備開始した。この時点で、元は南宋との5年に及ぶ襄陽・樊城の戦い勝利し南宋元に対抗する国力失っていた。また朝鮮半島三別抄元に滅ぼされており、軍事作戦対日本専念させることが可能となったのである1274年文永11年至元11年1月クビライは昭勇大将軍洪茶丘高麗派遣し高麗戦艦300艘の建造開始させた。 洪茶丘監督造船軍民総管任命され造船総指揮に当たり、工匠人夫(にんぷ)30,500余り動員した洪茶丘督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという。同年5月、元から派遣され日本侵攻主力15,000人が高麗到着する同月クビライは娘の公主クトゥルクケルミシュ忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元の子王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻前にして元と高麗の関係をより強固にする。その直後7月には元宗死去し8月に諶が新たに25高麗国王・忠烈王として即位した6月高麗元に使者派遣し戦艦300艘の造船完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗金州泊めたことを報告する8月日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗着任した

※この「第一次日本侵攻計画」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「第一次日本侵攻計画」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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