第一次教科書問題と南京大虐殺展覧会
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「南京事件論争史」の記事における「第一次教科書問題と南京大虐殺展覧会」の解説
詳細は「第一次教科書問題」を参照 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}三度目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(昭和57年)文部省が教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせたとして中国や韓国から抗議を受けた第一次教科書問題である。[要検証 – ノート] 中国では戦後、南京事件に触れることはほとんどなかったが、第一次教科書問題によって人民日報が戦後初めて南京事件を解説した。70年代末生まれの中国の作家朱世巍よると、当時の中国の教科書は虐殺を記述しておらず、彼の教師が一小学生の彼に大虐殺のことを教えたという。1960年から1982年まで人民日報には南京大虐殺を論じた記事は一つもなかった。また胡喬木による党史『中国共産党の三十年』 も事件を記述していないし、三岡徤次郎(元大本営船舶課参謀、自衛隊第九師団長、中国政経懇談会会長)が1977年10月7日に鄧小平国務院副総理と会った際、鄧小平は「日本の軍国主義は中国を侵略した。そのため蒋介石は後退し、それにより八路軍は勢力を広げることができ、最後は蒋介石を打ち破ることができた」と述べ、南京事件を語らなかった。 人民日報が、松野幸泰国土庁長官は若者が自国の歴史を尊敬できなくなるので教科書で「侵略」を使うべきではないと発言したと報じると中国側は小川平二文部大臣の訪中を拒否した。また松野は8月9日に「南京戦では日本兵8000人、中国兵12000人が犠牲となったが、これは(戦闘の犠牲であって)『虐殺』とはいえない」と発言すると、中国では「日本の高官が南京大虐殺を否定した」とショックを受け、戦時中の中国の苦難の記憶を復活させようという運動につながっていった。人民日報は松野発言を「歴史への最も不条理な見方である」とし、日本で軍国主義が復活していると警告した。さらに北京や上海の大学で抗日戦争(日中戦争)勝利37周年記念シンポジウム、8月12日には日本の戦争犯罪の初の展示として「日本侵略による南京大虐殺展覧会」が南京博物館で開催された。 1982年8月26日、鈴木善幸政権は、宮澤喜一官房長官による談話を発表し、日本が「韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えた」と認め、近現代史に関する日本の教科書記述については近隣諸国に配慮しなければならないという近隣諸国条項が設けられた。しかし、日本政府の対応は国内の反発を招き、否定派が支持を拡大した。このような中、田中正明が『南京虐殺の虚構』を発表し、否定派(本人は虐殺否定派と自称)を代表するようになった。この事件以降、中国や韓国など日本の近隣諸国との外交関係で歴史認識問題がもっともセンシティブなものとなった。 中国では抗日戦争勝利37周年記念として盧溝橋事件、南京大虐殺、満州事変(九・一八事変)の催事が立て続けに開催された。1985年には南京大虐殺紀念館を建設し、『侵華日軍南京大屠殺資料専輯』を出版して、南京事件の研究と周知を進めた。 1986年9月、南京虐殺記念館に案内された三岡徤次郎中国政経懇談会会長が中央軍事委員会副主席の余秋里に「20万人しかいない南京で30万虐殺があったと中国は主張しているが、話が合わないではないか」と尋ねると、余秋里は「下関で二万人を殺したと日本から言ってきている」と答えた。
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