第一次日本ハム時代
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1年目の2004年、イースタン・リーグで6月途中までに6勝を挙げた。同年6月16日の千葉ロッテマリーンズ戦で1軍初先発したが、3回7失点で降板。2軍では最終的に10勝を挙げ、イースタン・リーグの最多勝利となった。 2年目以降は制球の乱れが目立ち、不振に陥った。2005年・2006年と2年連続で、1試合に先発登板したのみに終わった。2005年9月27日の対ロッテ戦では、9回を無失点に抑えたにも関わらず、打線も小林宏之の前に無得点に抑え込まれ、勝利投手になれなかった。2006年に先発した試合では、後続の失点で初勝利を逃した。 2007年は3試合に中継ぎとして登板。同年6月14日の横浜ベイスターズ戦の延長11回裏にフェルナンド・セギノールの代走として出場した。2008年は1軍登板なし。 2007年12月、東京ドームの元ボールガールの女性と結婚。2009年6月、第一子となる長男が誕生。 2009年、開幕1軍入りを果たし、主に左のワンポイントとして登板。同年8月5日、3年ぶりに先発し6回まで無安打に抑えたが7回に連打を浴び降板、初勝利を逃した。その次の登板となった8月12日、5回8失点で降板し、2軍に降格した。 2010年は、5試合に中継ぎとして登板するも、防御率7点台と打ち込まれた。同年10月には、第17回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選ばれた。 2010年11月9日、ウィルフィン・オビスポとの交換トレードで、紺田敏正と共に読売ジャイアンツへ移籍した。
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第一次日本ハム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:56 UTC 版)
2007年は、5月17日に初めて一軍に昇格し、同日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(東京ドーム)に中継ぎとしてプロ初登板すると、6月8日の東京ヤクルトスワローズ戦ではプロ初勝利を果たした。この試合は雷雨で降雨コールドゲームとなったため、「カミナリ王子」と呼ばれた。その後、八木智哉・金村曉が故障で離脱したことで、その穴を埋める形で先発ローテーションに定着し4勝を挙げた。さらに、日本シリーズ第4戦では、高卒新人としては中村大成・稲尾和久・堀内恒夫・石井一久以来となる先発登板を果たした。 2008年は、開幕から先発ローテーションに入ったものの、7試合で2勝4敗、防御率6.23と結果を残せず、セ・パ交流戦前に登録抹消され、以降は一軍登板はなかった。 2009年は、開幕を二軍で迎えた。7月7日には結婚した。9月に一軍昇格すると、投球回数を上回る奪三振数を記録したものの、シーズン未勝利に終わった。 2010年は、4月に登板した試合で炎上し、当時のチームメイトだったダルビッシュ有にTwitterで名指しで批判された。その後、9月以降は中継ぎとして登板して、4試合で4回2/3を無失点に抑えた。 2011年は、開幕を二軍で迎えた。5月末に昇格したものの最少失点で抑えた試合でも打線の援護がないなどの不運も重なり、3年連続でシーズン未勝利に終わった。一方、二軍では好投を続け、イースタン・リーグ投手四冠王に輝いた。 2012年は、開幕から先発ローテーション入りし、4月1日の埼玉西武ライオンズ戦では黒星を喫したものの8回1失点と好投を見せ、同8日の千葉ロッテマリーンズ戦では1438日ぶりの勝利を挙げた。交流戦では内海哲也と並ぶトップタイの4勝を挙げ、防御率1.42と安定した内容でセ・パ交流戦 日本生命賞を受賞した。6月5日の広島東洋カープ戦では3回に東出輝裕の頭部に当て危険球による退場処分を受けた。8月11日の西武戦では、ルーキーイヤー以来5年ぶりとなる完封勝利を自身初の無四球で飾ると、次の登板である同17日のロッテ戦でも勝ち星を挙げ、自身初の2桁勝利を達成した。最終的にはリーグ2位の14勝を挙げ、自身初のタイトルとなる最優秀防御率を獲得し、パ・リーグMVPに選ばれチームの優勝の原動力となるなど、前年までの不振を全て払拭したシーズンとなった。しかし、巨人との対戦となった日本シリーズでは一転して肘の痛みと変化球の制球に苦しみ、第1戦、第5戦と先発するが、レギュラーシーズンで3本塁打だったジョン・ボウカーに両試合ともに本塁打を打たれ、いずれも敗戦投手になった。 2013年は、チームトップの160回1/3を投げ、2年続けて先発ローテーションを守るも7勝に留まり、リーグワーストとなる15敗を喫した。 2014年は、自身初となる開幕投手に指名されたものの、4試合で3敗と打ち込まれ二軍降格、シーズン初勝利を挙げたのは5月となった。この年は若手の上沢直之や中村勝らのローテ定着もあってわずか3勝に留まり、規定投球回にも到達しなかったが、クライマックスシリーズでは福岡ソフトバンクホークス戦に登板し6回3失点で勝利投手となった。 2015年は開幕から勝ち星を重ねるなど好調で、7月16日に第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出されたことが発表された。8月28日のソフトバンク戦では5回1/3を1失点の好投で3年ぶりの2桁勝利を達成した。最終的に11勝8敗、防御率3.84の成績を残した。 2016年は8月まで先発ローテーションを守っていたが、不調で二軍落ちした。その後抑えのマーティンが負傷離脱したことでリリーフへ転向しプロ初セーブも記録した。最終成績は、27試合で7勝6敗3S、防御率4.19であった。クライマックスシリーズや日本シリーズでは登板がなかった。
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