11世紀 - 19世紀
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金の首都を中都(のちの北京)に移した海陵王は、兄嫁だった阿里虎と性的関係を持った後、その娘で自身にとっては姪である重節とも性的関係を持ち、この件が一因となって一般の人民感情とは関係なく「獣性狂」などという不名誉な呼称で語られる羽目になった。 『高麗史節要』によれば、忠恵王は庶母で寿妃の権氏と通じ、父の妻で元から来た慶華公主を無理矢理に犯したとされる。 インカ帝国においては、インカ王家の始祖であるマンコ・カパックの婚姻形式を模倣し、皇族の純血性を守ろうとする考えから近親婚が行われ続けた。マンコ・カパックは、財産相続を巡る争いを防止し、神の子孫である一族の血の純潔を保つため王位継承者は常に一番年長の姉妹と結婚するようにとの命令を下した。だが、14代に亘り兄弟姉妹婚が繰り返されたにもかかわらず、健康上問題は起こらなかった。 ハワイでは王家にのみ許される特権として近親婚が容認されるだけではなく、奨励されており、カメハメハ3世は実の妹ナヒエナエナ王妃と通じていた。古代ハワイの最も位が高い族長が姉か妹と結婚して産まれた息子は高貴な存在と見なされ、その前では誰もがひれ伏さなければならなかった。族長が腹違いの姉か妹と結婚して産まれた息子の場合は威光はさほどでもなく、その前では座るだけでよかった。ハワイにおける兄妹・姉弟間の婚姻はピオ婚と呼ばれている。ニューギニアのキワイ族は父娘間の結婚が認められ、マレー群島やミナハッサ地方では親子、兄妹・姉弟の結婚が行われた。 西アフリカのダホメの王家では兄妹・姉弟間での結婚、ムブティ族では母と息子間での結婚が行われていた。 アザンデ族では貴紳家族などで近親相姦が歓迎される傾向が存在し、ドブ族では父親が死んだ場合は母親と息子の間での近親相姦がそれほど珍しいものではなかった。トンガでは力量を持ったハンターが大きな狩猟の準備の際に自分の娘と性交渉を持つことがあった。マダガスカルでは主長や王は、姉妹と結婚することができる。マダガスカルのアンタムバホアカ族は、兄妹・姉弟の結婚は幸福の基であると信じる。
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