11世紀後半の中近東情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:05 UTC 版)
「第1回十字軍」の記事における「11世紀後半の中近東情勢」の解説
西欧諸国とイスラム諸国の間には東ローマ帝国が存在していた。東ローマ帝国はキリスト教国ではあったが、世俗権力の下に正教という別の教派が置かれ、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を二分していた。皇帝アレクシオス1世コムネノスの下で、帝国は西にカトリック教国群と隣接し、東にイスラム世界と接していた。さらに北からはスラブ人の圧迫も受けていた。アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。 当時のイスラム諸国は互いに争い、またセルジュークは内紛の真っ只中にあったことが、第1回十字軍の行動を成功に導いた。アナトリア半島とシリアは、中央アジア・イラン高原を本拠地とするセルジューク朝によって治められていた。セルジューク朝もかつては大帝国であったが、この時代には地方政権が割拠する分裂の時期を迎えていた。かつてセルジューク朝を統合して最盛期を現出したスルタン、アルプ・アルスラーンは1071年に東ローマ帝国軍を破りアナトリアを支配下におさめたが、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、大セルジューク朝は内紛続きで分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに相手の隙につけこんでは戦う情勢だった。アナトリア方面はセルジューク朝の本家である大セルジューク朝ではなく、分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、シリアを統治するセルジューク朝分家のシリア・セルジューク朝は跡を継いだ兄弟の間で深刻な対立状態にあった。 名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのがジャズィーラとパレスチナであった。一方、パレスチナはエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、ファーティマ朝と対セルジュークで連携を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。 ムスタアリー(Al-Musta'li)に率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、十字軍到来寸前の1098年にようやく取り戻したばかりであった。ファーティマ朝の宮廷ではエルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり考えていた。
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