11世紀のバイエルン
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「バイエルン公国」の記事における「11世紀のバイエルン」の解説
1004年3月21日にハインリヒ2世はバイエルンを自身の妻の兄弟にあたるルクセンブルク伯ハインリヒ(バイエルン公ハインリヒ5世)に譲ったが、その領域は非常に縮小されたものだったのであった。ケルンテンの方は同年にハインリヒ2世がオットー1世の三男であるコンラート1世に支配権を認めたことで最終的にバイエルンから分離した。バイエルン公国内の大部分の修道院とその土地は1007年以降はバンベルク司教領(ドイツ語版)として形成され皇帝の支配権に留まることとなり、大部分の公領の方はハインリヒ2世の皇后であるクニグンデが支配するところが明白となった。 しかし、ハインリヒ2世とその皇后親族との関係は直ぐに悪化した。ハインリヒ5世が1009年5月に公位をはく奪されたことによりバイエルンは皇帝が直に治めることが明白となった。もっとも1017年5月にハインリヒ5世には再びバイエルン公位が授けられ1026年に死ぬまで統治した。ハインリヒ5世には子供がいなかったことからバイエルンは新皇帝コンラート2世の個人領に編入され、1027年にバイエルン公の称号を自身の十番目の息子で後継者であるハインリヒ3世(バイエルン公としてはハインリヒ6世)に譲った。1049年から1053年までを例外としてバイエルンは1061年まで事実上皇帝とその息子の支配下に置かれていた。 幼帝ハインリヒ4世の摂政であるアグネス・フォン・ポワトゥーがドイツ諸侯に封土を安易に分与したことによりバイエルンは1061年にオットー・フォン・ノルトハイムが所有統治するところとなった。他方、ハインリヒ4世に成年に達すると1070年に幼少時に喪失した領地の奪還に着手した。バイエルンを所有するオットーはハインリヒ4世の目には自身の政策に目障りであると映っていて、その陰謀計画によって告発及びバイエルンを没収され、バイエルンはヴェルフ4世の手に移ることとなった。
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