史実性についての言説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 11:00 UTC 版)
「レフとチェフとルス」の記事における「史実性についての言説」の解説
ボヘミアの諸年代記では、チェフは単独かレフとの二人組でしか登場しない。チェフの初出は1125年のプラハのコスマスの年代記で、ここではラテン語で「ボヘムス」と呼ばれている。[要出典]。ポーランドにおいてレフ、チェフ、ルスの三人組が初めて言及されたのは、13世紀末から13世紀初頭にかけて書かれたヴィエルコポルスカ年代記である。 三兄弟の伝説はポーランド人、チェコ人、場合によってはロシア人(ルーシ族)をも同一の祖先をもつものとして見なされていたこと、また同時に、13世紀前半にはすでにこの3つのスラヴ人グループがエスニシティ上、言語上で区別されていたことを示している。またこの伝説は、初期スラヴ人の故地が東ヨーロッパに存在していたことも伝えている。この地域は、現在の学界で主流となっている、インド・ヨーロッパ祖族の発祥の地と重なっている。クルガン仮説では、インド・ヨーロッパ語族の内で大移動に加わらず残った者たちがバルト・スラヴ語派を形成したとされている。 ポーランド中心主義の言説においては、レフのもとにだけナショナルシンボル(白鷲)が現れたとし、チェフやルスはサブキャラクター程度の位置づけがなされている形の伝説がよく取り上げられる。さらにこのバージョンでは、南スラヴ人の起源に関する説明がない。 レフとチェフとルスの伝説は、民族名の語源を説明しようとしている点も重要である。3人の名はレヒア(シレジアを含むポーランドの別名)、チェコ(英語版)(ボヘミア、モラヴィア、シレジアを含む)、ロシア(ルーシ)に通じている。ポーランド・ルネサンスの著名な知識人の一人であるヤン・コハノフスキは、スラヴ人の起源について述べた自身の随筆の中で、3人目の「兄弟」であるルスには言及していない。さらに彼は「歴史家の中で、スラヴ民族について……2人のスラヴ人指導者、レフとチェフについてまともに取り上げようとする者はいない。」と述べ、伝説を完全に否定した。その代わりに「チェヒ」(Czechy)と「レヒ」(Lechy)というのは2つの民族の原初的な名称だったのだろうとしている。ただしコハノフスキも、ポーランド民族に偉大な指導者がいて、その名前が忘れられ民族の名「レフ」で呼ばれるようになったという可能性は否定していない。
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