史実上の宋江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:25 UTC 版)
14世紀に編纂された『宋史』によれば、宋江の率いる反乱軍は河朔(黄河北岸)に興り、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略した。宋江の勢いを恐れた北宋朝廷は、侯蒙の建策に従って宋江の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた方臘の乱の反乱軍を討伐させようとしたが、侯蒙の死によって実現しなかった。その後、山東半島の海州に侵攻したところで知州の張叔夜に敗れ、降伏した。 『宋史』に記された侯蒙の上奏文には、「宋江は(部隊をまとめる、大将格の人数が)36人をもって斉・魏を横行し、官軍が数万人あっても対抗できないほどである。宋江の才は人より優れているに違いない」とある。 また、『宋史』とは別の史料からは、宋江反乱の鎮圧から後に方臘討伐軍の中に宋江という名の将軍がいたことが明らかにされているが、この人物は『宋史』の賊将宋江と同一人物であるかどうかは諸説があって定説がない。主な説を挙げると、 賊将宋江と官軍の宋江とは同一人物で、降伏後に方臘討伐に参加したのであろう。 賊将宋江と官軍の宋江とは別人である。賊将宋江が降伏後方臘討伐に参加したとすると時期が合わない(宮崎市定の説)。 官軍の宋江は水滸伝が流行した後に史料に書き加えられたもので、捏造されたものであり、実在しない(高島俊男の説)。 などである。 この史実を下敷きに、宋江を首領とする36人の無法者が夜盗の巣窟となっていた山東省西部の沼沢梁山泊を根城として活動し、最後は朝廷に降伏するまでの物語が生まれ、『水滸伝』へと発展していった。
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