史実上の逸話とは? わかりやすく解説

史実上の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:31 UTC 版)

柳生宗矩」の記事における「史実上の逸話」の解説

家光との逸話 島原の乱の際、大将として遣わされ板倉重昌敗死予見し、派遣撤回するよう家光諌言した(『徳川実紀『藩翰譜』)。またその際落城までの流れ正確に予見したため家光はじめ周囲驚いたという。 元和8年1622年)、新陰流全て相伝してほしいと家光強く要求されたため、伝書二巻与えたが、伝書末尾に「技法はこれで全てですが印可別物です」という旨を記して家光諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太目録外物』) 寛永15年1638年)、家光兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがあるその際沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全て上様次第である。やましいことなど何もないまっすぐなものだ」と答え大笑いしたという。結局その後家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという。 寛永19年1642年)、宗矩が湯治出ていた間、沢庵和尚家光御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚手紙はないか」と十度尋ねたという。 亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え自分死後所領1万2,500石と家財全て将軍家返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通り差配し、所領家財を三厳・宗冬・列堂に分配している。 宗矩の死後家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。 家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。 沢庵との逸話 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海堀直寄と共にその赦免為に奔走している。これに対し沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて其の時分のがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している。 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光沢庵帰依するきっかけ作った(『徳川実紀正保3年5月28日条)。 寛永12年1635年)、家光の命によって沢庵江戸上府することになった際、麻布柳生家下屋敷現在の目黒雅叙園辺り)の長屋一室所望されたので、これを供した沢庵はこの長屋一室を「検束庵」と呼び、後に東海寺住職となるまで、家光から屋敷与えと言われても断り、ここに住み続けた(『東海和尚紀年録』) 東海寺造営の際、家光頼まれて宗矩が沢庵説得したことで、沢庵東海寺住持となる事を決めたという。 大名衆との逸話 島原の乱鎮圧後抜け駆け咎められ鍋島家のために家光赦免嘆願取り成し減刑成功したという(『元茂公御年譜』)。 亡くなる際、鍋島元茂与え伝書(『兵法家伝書』)への花押最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識朦朧とし、元茂の家臣村上伝右衛門力を借りて印したため、花押大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠口述者山本常朝伯父である。 正保2年1646年)、鍋島直能が宗矩との兵法修行の際、国許狩りで、向かってくるにわざと股の下をくぐらせ後ろざま抜き打ち切り捨てた話をしたところ、「まだまだ修行足りません。が股をくぐる前に仕留めなければ危なでしょう」と諌めた。直能はこれに深く感じ入ったという。 細川忠利の病が重くなった際、江戸にいた嫡子細川光尚帰国のため、老中酒井忠勝と共に様々に取り計らったという。 伊達政宗とは、かなり早くから交際があったという。慶長13年1608年)、まだ3,000石の身であった宗矩の屋敷政宗遊びに来た際、振舞われた酒の美味さに惚れ込み、この酒を作れ杜氏自家欲しいと申し出たので、宗矩は大和の又五郎紹介したという逸話がある。なお、その後、又五郎伊達家の「御城内定詰御酒御用」として召し抱えられ切米十両十人扶持、また「」姓を与えられ子孫代々御用酒を供し仙台酒造り大い貢献したという。 寛永4年1627年11月、宗矩は胃潰瘍倒れており、寛永6年1629年2月ごろになって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗老中酒井忠世に「宗矩は今後も役立つ者であるから暇を与え湯治にでも行かせてやってはいかがか」と促している。 寛永11年1634年)、家光上洛時の朱印状発行の際、本家からの独立狙った毛利秀元毛利就隆動き対し毛利秀就からの頼みに応じて、これを防いだという。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大坂の陣の後、詮議担当した毛利家家臣内藤元盛(佐野道可)、及びその子息が主家の命によって自刃した一件佐野道可事件)を嘆き縁者宛てて書状送ったという。[要出典] その他の逸話 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという。 能や踊り好み、自らもよく能を舞っている。秘曲とされる関寺小町舞ったり、時には立ちくらみ起こすまで舞ったことがあったという。また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選おこなったこともあった。ただし、好きが過ぎて大名家押しかけ舞ったりすることもあったといい、沢庵より忠告受けている(『不動智神妙録』)。 沢庵より挨拶良い大名取り成ししているという噂があるので注意せよ忠告受けている。 かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うはやめるよう忠告受けている。

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史実上の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:56 UTC 版)

柳生三厳」の記事における「史実上の逸話」の解説

酒好きの上酔いが回ると言動荒くなったといい、沢庵宗彭にも再出仕の際に忠告されている。しかし、その後酒好きはあまり収まらず、朝から東海寺に酒を持って現れ、僧たちに振る舞いつつ、からかうなどの言動があった(『沢庵和尚書簡集』)。またこれが致仕原因ではないかともいわれている。 沢庵慕い最初著書である『昔飛衛という者あり』を父・宗矩に酷評され時には沢庵頼って相談し、その取り成しもあって印可認められている。(『昔飛衛という者あり』) 父宗矩の高弟木村友重(助九郎)と交流があり、共に伊香保温泉に出かけて兵法について問答交わしている他、友重門弟にも教示与えている様子友重によって記録されている(『木村助九郎兵法聞書』)。

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