史実上の逸話
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家光との逸話 島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという。 元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太刀目録外物』) 寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという。 寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという。 亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している。 宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。 家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。 沢庵との逸話 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海や堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している。 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(『徳川実紀』正保3年5月28日条)。 寛永12年(1635年)、家光の命によって沢庵が江戸に上府することになった際、麻布の柳生家下屋敷(現在の目黒雅叙園の辺り)の長屋の一室を所望されたので、これを供した。沢庵はこの長屋の一室を「検束庵」と呼び、後に東海寺の住職となるまで、家光から屋敷を与えると言われても断り、ここに住み続けた(『東海和尚紀年録』) 東海寺造営の際、家光に頼まれて宗矩が沢庵を説得したことで、沢庵は東海寺住持となる事を決めたという。 大名衆との逸話 島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという(『元茂公御年譜』)。 亡くなる際、鍋島元茂に与える伝書(『兵法家伝書』)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者・山本常朝の伯父である。 正保2年(1646年)、鍋島直能が宗矩との兵法修行の際、国許の狩りで、向かってくる猪にわざと股の下をくぐらせ、後ろざまに抜き打ちで切り捨てた話をしたところ、「まだまだ修行が足りません。猪が股をくぐる前に仕留めなければ危ないでしょう」と諌めた。直能はこれに深く感じ入ったという。 細川忠利の病が重くなった際、江戸にいた嫡子・細川光尚の帰国のため、老中・酒井忠勝と共に様々に取り計らったという。 伊達政宗とは、かなり早くから交際があったという。慶長13年(1608年)、まだ3,000石の身であった宗矩の屋敷に政宗が遊びに来た際、振舞われた酒の美味さに惚れ込み、この酒を作れる杜氏を自家に欲しいと申し出たので、宗矩は大和榧森の又五郎を紹介したという逸話がある。なお、その後、又五郎は伊達家の「御城内定詰御酒御用」として召し抱えられ、切米十両と十人扶持、また「榧森」姓を与えられ、子孫代々御用酒を供し、仙台の酒造りに大いに貢献したという。 寛永4年(1627年)11月、宗矩は胃潰瘍で倒れており、寛永6年(1629年)2月ごろになって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利宛の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗が老中・酒井忠世に「宗矩は今後も役立つ者であるから暇を与え、湯治にでも行かせてやってはいかがか」と促している。 寛永11年(1634年)、家光上洛時の朱印状発行の際、本家からの独立を狙った毛利秀元、毛利就隆の動きに対し、毛利秀就からの頼みに応じて、これを防いだという。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大坂の陣の後、詮議を担当した元毛利家家臣・内藤元盛(佐野道可)、及びその子息が主家の命によって自刃した一件(佐野道可事件)を嘆き、縁者に宛てて書状を送ったという。[要出典] その他の逸話 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという。 能や踊りを好み、自らもよく能を舞っている。秘曲とされる関寺小町を舞ったり、時には立ちくらみを起こすまで舞ったことがあったという。また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選をおこなったこともあった。ただし、好きが過ぎて大名家に押しかけて舞ったりすることもあったといい、沢庵より忠告を受けている(『不動智神妙録』)。 沢庵より挨拶の良い大名を取り成ししているという噂があるので注意せよと忠告を受けている。 かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている。
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史実上の逸話
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酒好きの上に酔いが回ると言動が荒くなったといい、沢庵宗彭にも再出仕の際に忠告されている。しかし、その後も酒好きはあまり収まらず、朝から東海寺に酒を持って現れ、僧たちに振る舞いつつ、からかうなどの言動があった(『沢庵和尚書簡集』)。またこれが致仕の原因ではないかともいわれている。 沢庵を慕い、最初の著書である『昔飛衛という者あり』を父・宗矩に酷評された時には、沢庵を頼って相談し、その取り成しもあって印可を認められている。(『昔飛衛という者あり』) 父宗矩の高弟の木村友重(助九郎)と交流があり、共に伊香保温泉に出かけて兵法について問答を交わしている他、友重の門弟にも教示を与えている様子が友重によって記録されている(『木村助九郎兵法聞書』)。
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