史実・資料における記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。 現実問題として、太鼓を叩いてしまっては奇襲が意味をなさなくなってしまうので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう。 しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。 当時太鼓といえば火事を連想するものであったので、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している。 史実としては山鹿素行の山鹿流は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので、実際の兵法は二次的なものにすぎないという意見もある。 石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが、菅谷に関する資料は殆ど無く、赤穂市史編纂室は石岡の主張を疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている。菅谷は、素行が赤穂藩を致仕した年と同年の生まれであり、流罪を許された年には、政利はすでに勘当されており赤穂に不在である。 同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない(wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。さらに、堀部武庸が残した『堀部武庸日記』には、多くの義士たちが儒学者・細井広沢や大太刀の堀内正春ら著名な学者や剣豪に師事した記録が詳細に書かれているが、山鹿素行に関しての記述は見られない。 しかし、浅野長直は赤穂に流刑時代の素行お預かりを担当しており、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて山鹿素行が助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。 素行の嫡男・山鹿政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている。 ゆっくり移動し、途中で振る舞われた粥ばかり食べていたとするのは史実ではない。 素行の子らは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家による計三氏、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏で続いた。現在のところ、広島藩や森家赤穂藩で山鹿流の記録は発見されていない。のちに津軽からは山鹿素水が出て長州藩らによる維新回天を生む。 平戸山鹿氏と松浦家は、『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあるを論拠として、「大石の輩は公儀の免許も得ず徒党を組み、火事と偽りて闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙なり」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う。 一方、幕府兵学の大家・窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。山鹿流を軸に甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人、清音はじめ佐藤一斎に師事した若山勿堂の門下から、勝海舟、板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出されている。
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