赤頭 (陸奥国の人物)
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赤頭(あかかしら、あかず)は、陸奥国の伝説上の人物。文献によっては鬼ともされる。
歴史
鎌倉時代
吾妻鏡
『吾妻鏡』文治5年(1189年)9月28日の条で、源頼朝が鎌倉へと帰還する途中に平泉の達谷窟を通ったときのことが記されているが、そこに赤頭の名前が登場する[原 1][1]。
奥州合戦にて藤原泰衡を破った頼朝は、降伏した樋爪俊衡を臣従させると、鎌倉への帰途に着く際に捕虜の多くを放免し、残すところ30名弱を引き連れていった。途中でとある山に立ち寄った頼朝は、当地のいわれを捕虜に尋ねてみた。捕虜いわく「田谷の窟といいます。ここは田村麿や利仁らの将軍が帝の命を受けて蝦夷を征したとき、賊主である悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」と教えられた。
岩屋の先に北へ10数日で外濱に至る。坂上将軍は、この岩屋の前に九間四面の精舎を建立して、鞍馬寺を模倣して多聞天を安置し、西光寺と名付けて水田を寄付した。寄付状には、東は北上川まで、南は岩井川までとし、西は蔵王岩屋まで、北は牛木長峰まで、東西が30数里、南北20数里という — 『吾妻鏡』より大意
「田谷」はタコクであり、達谷窟(たっこくのいわや)を指す[2]。『吾妻鏡』では、蝦夷の長である悪路王と赤頭が坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐され、田村麻呂が鞍馬寺を模し多聞天像を安置して西光寺を建てたとある[1][3]。「田村麿」は田村麻呂の別表記だが、その100年ほど後の人物である藤原利仁が同輩のように語られており、伝承に混乱が見られる[4][5]。
阿部幹男は、「悪路王伝説」が形成されていく過程について、達谷窟周辺は桃源郷的農村でも賊主が立て籠る要塞でもなく、安倍頼良の本拠衣川の柵との境で、奥州藤原氏全盛には平泉の西門に位置し、堂宇も数多くあったため頼朝は清水寺や鞍馬寺と同じ光景を目にして達谷窟に輿を休めたのではとしている[6]。平泉やその周辺の地に祇園、八坂、鈴沢、東山、大原など京の地名が移されたように、平泉に京の物語が導入されたことで同型の物語が創出された[6]。また平泉の歴史的地理的役割を考える上で常陸国の鹿島との交流も念頭に置かなければならないともしている[6]。
関幸彦は、王権の所在から東方世界に位置した陸奥を含む東北は「悪路王伝説」に象徴化されるように、古代日本の律令国家が東夷を征伐すべき存在として武威を発揚することで中世を胚胎させたと論じている[7]。『陸奥話記』で坂上田村麻呂伝説が浮上し、これを継承するように『吾妻鏡』が悪路王伝説を紹介したとしている[7]。
室町時代
義経記
南北朝時代から室町時代初期に成立した軍記物語『義経記』では、田村麻呂と利仁が悪路王と赤頭を討伐したという『吾妻鏡』の記述を引用しつつ、『元亨釈書』に登場する高丸が混交したことで、悪路王の名は「悪事の高丸」なる人物に置き換えられている [原 2]。
代々の帝が宝としてきた、16巻に及ぶ秘蔵の書がある。 日本の武士では、坂上田村丸がこれを読み伝えて悪事の高丸を討ち取り、藤原利仁はこれを読んで赤頭の四郎将軍を討ち取った。 — 『義経記』より大意
周の太公望撰とされる『六韜』という兵法書を読むことで田村麻呂は悪事の高丸を、利仁は赤頭の四郎将軍を討ち取って名を挙げたとある[8]。
地方伝説
岩手県
大船渡の鬼越え
岩手県大船渡市の伝承では、「赤頭」が個人名ではなく集団名とされている。
猪川町の久名畑には、かつて盛川に面して「鬼越え」という巨岩があった[9]。その昔、この地では悪鬼の部族「赤頭」が坂上田村麻呂に抵抗していた[9]。彼らは半年ほどの戦いの後に敗れて四散し、長である「高丸」も久名畑から日頃市方面に逃れようとした[9]。2丈 (6m) もある巨岩の上に追い詰められた高丸は、最後の力を振り絞って川を跳び越え、そのまま逃げ去ったという[10]。
伝説の巨岩そのものは現存しないが、跡地には「鬼越えふれあい広場」という公園が整備されている(北緯39度06分07.2秒 東経141度41分28.5秒 / 北緯39.102000度 東経141.691250度)。
宮城県
古将堂
伊達氏仙台藩4代藩主・伊達綱村の命により佐久間義和が編纂した『奥羽観蹟聞老志』に刈田郡斎川村にある古将堂の勧請由来がみえ、その中に赤頭が登場する。古将堂は佐藤継信・忠信の妻が凱旋装束して老婆を慰めたという故事に因んで甲冑をおびた女体二像が安置されている[注 1]。
破鐙坂の東に堂があり、その中には戦装束をまとい烏帽子をかぶった女性像が2体置かれている。右の像は弓矢、左の像は刀を持っている。祭られているのは田村麻呂と鈴鹿神女であると伝えられている。また、遊王山高福寺という寺院がある。かつてこの地には妖怪がいて人を襲っていた。延暦14年(795年)東征に訪れた坂上田村麻呂はこれを退治しようとしたが、草むらに隠れたり洞窟に潜んだりして捕らえられない。田村麻呂が鈴鹿神に祈ると、飛来した神が妖怪を滅ぼし、その首を塚に埋めた。こうしてこの地は平和になり、鈴鹿神を祭る祠が建てられた。そのため「古将堂」や「将軍堂」と呼ばれるのである。
一説によれば、かつて悪路王や赤頭など凶悪の徒が、黄土や丹砂で身を飾り怪物のふりをして人を襲っていたのであり、すべて盗賊の仕業ということである。悪路王が好きなように荒らしまわったので「遊王山」と呼ぶのだとか。
【著者・佐久間義和による注】田村麻呂の凶賊退治は典籍が定かでない。それに鈴鹿神すなわちイザナギと田村麻呂を一緒に祭るのはありえないし、堂内の像は両方とも女性である。この話は信じるに足りない。 — 『奥羽観蹟聞老志』より大意
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田村神社(白石市)
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甲冑堂(古将堂)
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堂内の像
箟峯寺
宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡に所在する箟峯寺には、田村麻呂が赤頭高丸と悪路王を討って首を京に送った後、胴を岡の上に埋めるとともに戦死者を葬った塚を築き、その上に観音堂を建てたという伝説が残る[11]。
福島県
半田の赤頭太郎
福島県伊達郡桑折町には、赤頭(あかず)の太郎という大男の伝承が残っており[12]、古い記録にはその背景がうかがえる物がある。
『信達二郡村史』附録 甲集之下「伊達郡富沢村古事記録」によると、791年(延暦10年)に高丸の郎党である赤頭太郎が半田山の麓にて射殺され、祟りを恐れた人々により「赤頭太郎明神」として祀られたという[12]。
おそらく江戸時代に成立したと思われる[13]『霊山軍記』上巻には、醍醐天皇の治世に赤頭太郎が威を振るっていたため、追討に差し向けられた藤原利仁により、半田麓で討たれたとある[14]。赤頭太郎は1丈2尺(3.6m)の大男で、顔に朱をさしたような見た目をしており、大力無双であったという[14]。
桑折町北半田熊野に所在する益子神社は、大竹丸の弟である赤頭太郎が明神として祀られたのを始まりとしている[15]。
益子神社から程近い桑折町北半田道上には、赤頭太郎の異名である「赤瀬太郎」を顕彰した碑がある( 北緯37度52分30.7秒 東経140度31分25.8秒 / 北緯37.875194度 東経140.523833度)。
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益子神社
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地元の英雄 赤瀬太郎之碑
考察
『吾妻鏡』では悪路王と並び称されている赤頭だが、喜田貞吉はその『吾妻鏡』以外に確かな出典をほとんど知らないと述べている[16]。
伊能嘉矩は、アカカシラ→アカシラ→アカラと略せばアクロに通じるので、元は1人の名前を2通りの表記で示したものが、いつしか別々の人物と解釈されるようになったのだろうとしている[17]。
阿部幹男は、『常陸大掾伝記』『常陸大掾系図』の中で平国香の子孫という平正幹について「赤頭の四郎将軍と号す」とあり、鎌倉時代の『八幡愚童記』では塵輪という魔者の姿を「色赤く、頭は8有りて」と常套的な表現をしているため、時代的趣向から蝦夷の長に「赤頭」という名前を使用したものであろうとしている[18]。
脚注
原典
注釈
出典
- ^ a b 阿部 2004, p. 74.
- ^ 伊能 1922, p. 2.
- ^ 桃崎 2018, pp. 212–214.
- ^ 伊能 1922, p. 1.
- ^ TIF 1999, p. 44.
- ^ a b c 阿部 2004, pp. 75–77.
- ^ a b 関 2019, pp. 111–113.
- ^ 高橋 1986, p. 208.
- ^ a b c 大船渡市史4 1980, p. 397.
- ^ 大船渡市史4 1980, p. 398.
- ^ 加藤 1965, p. 716.
- ^ a b 桑折町史3 1989, p. 455.
- ^ 霊山軍記 上 1933, p. 2.
- ^ a b 霊山軍記 上 1933, p. 16.
- ^ 桑折町史3 1989, p. 946.
- ^ 喜田 1916, p. 138.
- ^ 伊能 1922, p. 3.
- ^ 阿部 2004, pp. 78–79.
参考文献
- 喜田貞吉「蝦夷の馴服と奥羽の拓殖」『奥羽沿革史論』、仁友社、1916年6月30日、27 - 140頁。
- 伊能嘉矩『悪路王とは何ものぞ』〈遠野史叢 第二篇〉1922年。
- 「霊山軍記 上巻」『福島県立図書館叢書』第2輯、1933年9月27日。
- 加藤治郎「箟峯寺の歴史と正月行事」『涌谷町史』上巻、1965年。
- 『大船渡市史』 第4巻(民俗編)、大船渡市史編纂委員会、1980年1月。
- 『桑折町史』 第3巻(各論編 民俗・旧町村沿革)、桑折町史出版委員会、1989年3月。
- 高平鳴海、糸井賢一、大林憲司、エーアイ・スクウェア『鬼』新紀元社〈Truth In Fantasy 47〉、1999年8月21日。ISBN 4-88317-338-0。
- 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店〈三弥井民俗選書〉、2004年1月。 ISBN 4-8382-9063-2。
- 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。 ISBN 4-642-05045-0。
- 内藤正敏『鬼と修験のフォークロア』法政大学出版局〈民俗の発見〉、2007年3月1日。 ISBN 978-4-588-27042-0。
- 関幸彦『英雄伝説の日本史』講談社〈講談社学術文庫 2592〉、2019年12月10日。 ISBN 978-4-06-518205-5。
- 桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす: 混血する古代、創発される中世』筑摩書房〈ちくま新書〉、2018年11月。 ISBN 978-4-480-07178-1。
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