坂上田村麻呂との結びつき
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 19:21 UTC 版)
「鈴鹿御前」の記事における「坂上田村麻呂との結びつき」の解説
南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子として認識されるようになっていく。盗賊立烏帽子と女神鈴鹿姫が同一視され、坂上田村麻呂の英雄譚に組み込まれるのは室町時代に入ってからと考えられる。 14世紀に成立した『太平記』では、源家相伝の鬼切の剣の由来を語る場面で、田村麻呂が鈴鹿御前と戦ったおりの剣が鬼切であり、やがて田村麻呂は鬼切を伊勢神宮に奉納、その後は源頼光に伝えられたとの一節があり、鬼切の剣を介して田村麻呂から頼光への武器継承の説話が創造された。御伽草子の世界は『太平記』での鬼切の剣の由来を語る場面を元にして、『田村の草子』では鈴鹿御前と田村将軍の剣あわせの場面に受け継がれ、また酒呑童子説話においても血吸の剣の由来として脚色されつつ引用された。 応永25年(1418年)の征夷大将軍・足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親が著した『耕雲紀行』に、当時の鈴鹿山の様子が記されており、「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという」と、この頃には鈴鹿御前と坂上田村麻呂伝説が融合していたことが伺える。
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