奥州三観音
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奥浄瑠璃『田村三代記』では箟嶽山、牧山、富山、大嶽山に大嶽丸の首、胴、足、手が埋められたという物語が創出された。いずれも田村麻呂創建の伝承を持ち、十一面観音を本尊としていた。 奥州霧山から姿を消した大嶽丸を田村丸、立烏帽子、霞野忠太の主従3人が「箟嶽山きりんが窟」で討伐した。田村丸は大通連、小通連、剣明剣、そはやの剣を投げて観音に祈ると、剣は虚空を切って廻り、大嶽丸の骸を4つ切りにした。大嶽丸の死骸は土地の人たちと佐沼の郷へ運び、死骸を守るために霞野忠太を残して、田村丸夫婦は伊勢の御殿へと帰った。(中略)その後、帝から鬼神を封じる宣旨が下った。田村丸は比叡山の座主・慈覚僧正と吉田社家を伴って奥州へと向かった。達谷が窟では慈覚僧正が7日7夜の護摩を焚き、吉田社家が108体の毘沙門天を造立した。箟嶽山ではきりんが窟を平らにして大嶽丸の首を築きこめて塚に観音堂を建て、無夷山箟峰寺の額をかけた。牧山には胴を築きこめて塚を造り、観音堂を建立した。富山にも足を築きこめて観音堂を建て、佐沼の郷の大嶽丸の死骸を置いたところにも手を入れて塚を築き地名を大嶽として観音堂を建立した。箟嶽山、牧山、富山、大嶽には慈覚僧正が自ら造った観音が祀られた — 『田村三代記』より大意 このうち首塚を築いて観音堂を建てた箟嶽山(箟峯寺)、胴塚を築いて観音堂を建てた牧山(梅渓寺)、足塚を築いて観音堂を建てた富山(大仰寺)は奥州三観音(田村三観音)と呼ばれる。また大嶽山(興福寺)は『長谷寺霊験記』での「三迫の新長谷寺」にあたる。
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