奥州入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 07:33 UTC 版)
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石(のちの検地・加増により91万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。また小田原遅参によって改易された下野小山氏に代わって藤原秀郷の嫡流となり、家紋を立鶴から三頭の左巴に変更した。秀吉は黒川城を出発するに際し、氏郷と木村吉清を召し出し、両人の手を左右の手にとって「今後、氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清はまた氏郷を父とも主とも頼み、京都への出仕はやめて、時々会津に参勤し、奥州の非常を警固せよ。もし凶徒蜂起のことがあれば、氏郷は伊達政宗を督促して先陣させ、氏郷は後陣に続いて非常の変に備えよ」と諭したという。 氏郷は家老にあたる仕置奉行に蒲生郷安を任じ、玉井貞右と町野繁仍にその加判を命じた。また、会津において重臣達を領内の支城に城代として配置した(#家臣を参照)。そして黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。7層楼の天守を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた[要出典]。 築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。 氏郷は会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったとされる。反面、与力大名や重臣に多くの所領を与え、自身の蔵入地を少なくしたことで、重臣たちが大きな力を持つようになり、氏郷没後に重臣間の権力争いを生じさせたという指摘もある。 氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市・楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。 以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の葛西大崎一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧するための遠征を行う。蒲生軍の遠征は、十番ないし十三番に編成された軍勢が一斉に会津若松を出陣するのではなく、先発部隊が奥大道を北上し、氏郷本隊が後から追いかけるような行程であった。遠征軍の布陣は、先陣が若松城より奥大道に近い位置にある支城主の部隊えで構成されていたのに対し、氏郷本隊を固める後陣は会津周辺の城主層で編成されている。このように「蒲生家中の全勢力を挙げての出陣」ともいわれる遠征軍の布陣は支城の配置とも密接に関わっており、平時の領内の支城・城持の配置がそのまま戦時における遠征のための行軍にスライドしている。 同年12月、従三位参議に任じられた(『御湯殿上日記』『毛利家文書』)。 文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために上洛し、10月25日には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。 文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。 蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された。
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