奥州三浦流塚原氏
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平安末期に会津の地を与えられた佐原義連(鎌倉幕府の有力御家人である三浦義澄の弟にあたる)から数代後(14世紀頃)、河沼郡蜷川庄(稲川庄とも)に居を構えた蘆名家臣・蜷川俊景(塚原監物)が奥州塚原氏の祖とされる。その子・塚原義景は1335年(建武2年)、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児・時行の挙兵(中先代の乱)に参加した主君・蘆名盛員に従うも、相州片瀬川の戦いにて討死を遂げる。義景の子である盛宗以降も、南北朝、室町期を経て戦国期まで代々、蘆名氏に仕えたものとされる。 また、文明年中、出羽小国に出奔した一族の塚原兵庫守は小渡村に居を構え、同17年(1484年)、沖庭山麓に沖庭大権現を建立している。この一族はその後は代々、沖庭大権現の別当職を世襲し、米沢藩上杉氏入植後は代々置賜郡小国の代官職(肝煎)となったとされ、新家、庶家は多岐にわたる。
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