『長谷寺霊験記』とは? わかりやすく解説

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『長谷寺霊験記』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 19:03 UTC 版)

奥州七観音」の記事における「『長谷寺霊験記』」の解説

古く奈良県桜井市初瀬にある長谷寺霊験譚が記され鎌倉時代前期仏教説話集『長谷寺霊験記』に「三迫新長谷寺並びに奥州の六箇寺」として所収されるは。 桓武天皇時代東夷常陸国まで攻め上がってきたため、延暦16年797年12月5日坂上田村麻呂征夷大将軍宣旨を蒙り、長谷観音参籠した。参籠から戻ると長谷清浄坊に仕え童子葦毛の馬を引いてきた。戦い時には必ずこの馬に乗るようにとのことで、田村麻呂悦んだ次の年の正月16日に京から常陸国向かった件の馬は手綱向けずとも進むべきに進み、退くときに退き、海は水面走り、山は高峰飛び越え射られても矢は立たず、傷を負ってもすぐ治る尋常の馬ではなかった。田村麻呂征夷成した陸奥国三迫でこの馬が忽として死んだため、石の唐櫃納めて埋葬した。この墓は光を放ち異香を燻じること7日不思議に思って墓を掘ると、生身十一観自在菩薩在り田村麻呂はあの馬は長谷観音化身で、日本助け我が願い成した尊く覚え、この地に寺を建てて新長谷寺名付けた。また奥州に6箇所の寺を建て、延暦19年800年6月16日同時に供養した。田村麻呂分身して6箇所同時に着座して聴聞したが、これは田村麻呂毘沙門天化身だからであった。京に凱旋した田村麻呂は、長谷寺清浄の上人に話をしたが、上人は全く知らず、馬を引いてきた童子知らなかった田村麻呂葦毛の馬は長谷観音ご利益だと確証得られた。 — 『長谷寺霊験記』下 第5「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」より大意田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」は長谷信仰伝え各地新長谷寺建立した勧進聖たちによって創出管理され説話である。主人公を「光り輝く馬」におき、舞台を「奥州三迫」としている背景には、当時奥州最大産金地で、名馬産地としても急成長する時代にあったことが挙げられる霊験譚は田村麻呂事績結び付いて創られた。。奥州入った長谷寺勧進聖たちの活動保証したのは、安倍氏中枢にいた藤原経清であった考えられる

※この「『長谷寺霊験記』」の解説は、「奥州七観音」の解説の一部です。
「『長谷寺霊験記』」を含む「奥州七観音」の記事については、「奥州七観音」の概要を参照ください。

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