『長谷寺霊験記』
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古くは奈良県桜井市初瀬にある長谷寺の霊験譚が記された鎌倉時代前期の仏教説話集『長谷寺霊験記』に「三迫の新長谷寺」並びに「奥州の六箇寺」として所収されるは。 桓武天皇の時代、東夷が常陸国まで攻め上がってきたため、延暦16年(797年)12月5日に坂上田村麻呂が征夷大将軍の宣旨を蒙り、長谷観音に参籠した。参籠から戻ると長谷清浄坊に仕える童子が葦毛の馬を引いてきた。戦いの時には必ずこの馬に乗るようにとのことで、田村麻呂は悦んだ。次の年の正月16日に京から常陸国に向かった。件の馬は手綱を向けずとも進むべきに進み、退くときに退き、海は水面を走り、山は高峰を飛び越え、射られても矢は立たず、傷を負ってもすぐ治る、尋常の馬ではなかった。田村麻呂は征夷を成したが陸奥国三迫でこの馬が忽として死んだため、石の唐櫃に納めて埋葬した。この墓は光を放ち、異香を燻じること7日、不思議に思って墓を掘ると、生身の十一面観自在菩薩が在り、田村麻呂はあの馬は長谷観音の化身で、日本を助け、我が願いを成したと尊く覚え、この地に寺を建てて新長谷寺と名付けた。また奥州に6箇所の寺を建て、延暦19年(800年)6月16日に同時に供養した。田村麻呂は分身して6箇所同時に着座して聴聞したが、これは田村麻呂は毘沙門天の化身だからであった。京に凱旋した田村麻呂は、長谷寺清浄坊の上人に話をしたが、上人は全く知らず、馬を引いてきた童子も知らなかった。田村麻呂は葦毛の馬は長谷観音のご利益だと確証が得られた。 — 『長谷寺霊験記』下 第5「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」より大意 「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」は長谷信仰を伝え、各地に新長谷寺を建立した勧進聖たちによって創出、管理された説話である。主人公を「光り輝く馬」におき、舞台を「奥州三迫」としている背景には、当時の奥州が最大の産金地で、名馬の産地としても急成長する時代にあったことが挙げられる。霊験譚は田村麻呂の事績と結び付いて創られた。。奥州に入った長谷寺の勧進聖たちの活動を保証したのは、安倍氏の中枢にいた藤原経清であったと考えられる。
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