『風土記御用書出』
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『長谷寺霊験記』の成立から約400年後に記された華足寺の縁起では「三迫の新長谷寺」並びに「奥州の六箇寺」の寺名がみられる。仙台藩が安永年間(1772年 - 1781年)にまとめた『風土記御用書出』の「華足寺書上」に「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」として所収される。 桓武天皇の時代、大武という鬼神が伊勢国鈴鹿山まで攻め登り、坂上田村丸が征夷大将軍を賜って、鬼神退治の宣旨を蒙ったため鈴鹿山で合戦をしたが、ことのほか打ち負けた。田村丸は千手観音に祈願したところ、たちまち利生が顕れて鈴鹿御前と対面し、鬼神退治の秘術を伝授され、これを有して合戦すると、鬼神は打ち負けて奥州へ逃げ下り、栗原郡に身を隠した。そこが今の大嶽観音である。彼らの同類は7ヶ所にいて朝敵となった。奥州に勅が下って、仙道で鬼神退治のご祈祷として大元明王の法をおこなわせ、今は田村明王という。田村丸が奥州の鬼神退治の宣旨を重ねて賜って下るときに大和国長谷寺雲井坊の使いが、はなのわれたる芦毛の馬を引いてきた。この馬に乗って奥州へ向かうと2夜3日で佐沼に着いた。鈴鹿御前が先にいて、大武は誑かされて毒酒をすすめられ、酔い臥せて不覚の有り体だった。将軍は太刀を抜いて首をはね、そこに首を埋めて上に観音を建立したのが今の大嶽観音である。骸は箟岳に埋めてその上に観音を建立して守護させた。この鬼神の同類は湊の牧山、水越の長谷、ひるかの小迫、鱒淵の華足寺、南部の三戸とはつの7ヶ所に居を構えたが、悉く退治されていずれにも観音を建立した。平城天皇の大同元年(806年)丙犬5月壬午の日午の時、同時に棟上げがあったが田村丸は7ヶ所にの棟上げに立ち会った。通力早馬がいたためであった。7ヶ所を巡って最後の華足寺で万成就したため、かの馬は死んだ。馬頭観世音であった。田村丸はかの馬を観音堂の上の山に埋め石経を書かせて塚を築いた。その後は夜になると光を放ち、不思議に思った人々が掘ると、馬は金色の馬頭明王として顕れ、石の箱をしたためて鬼門の方に埋め置いた。奥州の名馬はかの馬の残骨で、馬頭明王は馬の総鎮守である。(後略) — 『風土記御用書出』「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」より大意 「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」は慶長17年(1612年)頃、華足寺に滞留していた旅の僧が、地元の古老2人から聞いたという縁起で、荒唐無稽な物語と考えていたが、のちに長谷寺に参拝したときに『長谷寺霊験記』を読んだところ、華足寺の縁起と酷似していたため、寛永17年(1640年)5月11日に郡奉行所に申し上げるよう鱒淵村肝煎の人々に武蔵国中野の宝仙寺から出した文書である。『長谷寺霊験記』では東夷が常陸国まで攻めてくるのに対し、華足寺の縁起では鬼神が鈴鹿山に攻め上がるとある。他にも坂上田村丸や鈴鹿御前など御伽草子の登場人物に置き換えられているなど、基本的構造は『長谷寺霊験記』を残しつつ、御伽草子など後代の作品と交流したことで、新らたな物語の挿入や改変がされている。 また「田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事」では「三迫大嶽観音、涌谷箟嶽観音、湊牧山観音、水越観音、小迫観音、鱒淵華足寺馬頭観音、南部三戸長谷」と具体的に寺名が記される。『長谷寺霊験記』が創出された時代は奥州藤原氏が絶頂期を迎えた時期に当たるため、華足寺の縁起に登場する寺院は当時から実在していたと考えられる。
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