山の段
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:39 UTC 版)
舞台は、中央に川が流れ上手は背山に大判事清澄の館=男の世界、下手は妹山太宰館=女の世界が構成され、竹本の太夫と三味線も上手下手に床が設置されるというシンメトリックな形であり、両花道を大判事と定高が歩き、谺を表す上手、下手から響く小鼓に合せて途中で声を掛け合うのが、これは川を隔てて会話する演出で、観客は川に見立てられて両岸で繰り広げられるドラマを見るという卓抜した構成である。そこへ満開の桜に雛祭りの飾り付けが置かれる絢爛さに、悲劇性が強調される。 文楽でも上手と下手に太夫と三味線が分かれ、それぞれ大判事と定高を演じるステレオタイプの構成で音楽的にも優れている。文楽の七代目竹本住大夫は、浄瑠璃の語り方にも、大判事と久我之助は染太夫風と呼ばれる地味さ、定高と雛鳥は春太夫風と呼ばれる華やかさが特色で、作曲もそれをもとに行われていると分析し、「一場面で一時間、こういう長丁場をこしらえはった作者はえらいと思います。…お客さんが涙を催すようにできています。その上、文章もよく、文章が好ければ作曲もええ曲ができますし。そうすると、人形の振りもようなっていくものです。やっぱり一流作品なんですね。」と評価、さらに、「『妹背山』で一番の見所聴き所は、なんいっても三段目の〈山〉。物語のクライマックスですからね。こんな結構な『山』を掛け合いで語って、お客さんを居眠りさせてたら太夫の責任」と、この段の重要性を語っている。戦後、因会と三和会とに二分して対立していた文楽が昭和38年(1963年)に合一する時、この「山の段」が公演された。敵対する定高と大判事が子供の犠牲を越えて和解する粗筋を、両派の和解に託した趣向でもあった。 双方の親が子を手にかけ手真似で知らせたり、雛鳥の首を雛祭りの道具の乗せて定高が川に流し、大判事が弓で受け取る場面は悲壮感溢れる名場面である。最後には、「倅清舟承れ。人間最期の一念によって、輪廻の生を引くとかや。忠義に死する汝が魂魄、君父の影身に付き添うて、朝敵退治の勝ち戦を、草葉の陰より見物せよ。今雛鳥と改めて、親が許して尽未来まで、変わらぬ夫婦。忠臣貞女の操を立て、死したる者と高声に、閻魔の庁を名乗って通れ」という大判事の臓腑をえぐる名ゼリフがあり、ここが全編のクライマックスである。 大判事を演じた十三代目片岡仁左衛門は、この役の性根は「一筋縄ではいきません」として、その理由を「蝦夷館」と「花渡し」までは、入鹿の忠臣らしく演じているが、久我之助切腹で初めて本心を明かすので、それまでは、あくまで普通の敵役として演じてもならず、かといって本心を見せぬように考えて演じても義太夫狂言らしさが薄まるので、胆力のいる負担の多い役になるとしている。また、久我之助の死に際しては、「本当なら息子と手を取り合って、わーっと泣きたい心境なのですが、その悲しみを露骨に出さず涙を抑えて心で泣く、大義のために私情を殺すという古武士の硬骨を見せることで、逆に親子の哀れさがお客様に伝わるのです」という芸談を残している。いっぽう久我之助を演じた十五代目市村羽左衛門は、腹を切ってから落ち入るまでずうっと前かがみのままで座らねばならず、大変な苦痛をともなうつらい役であったと述べ、試みにどのくらい前かがみの姿勢でいるか計ってみたら35分もかかり、「芸談どころじゃありませんよ」とこぼしている。 定高は、本花道の出の名セリフ「枝ぶり悪き桜木は、切って継木をいたさねば、太宰の家は立ちませぬ。」から、観客を圧倒すべき芸力が必要で、女性ながらも格式の高さを誇る領主として演じなければならない。「なにしろ大判事が仮花道なのに対して、こちらは本花道へ出て行くお役です。…あまり肚の底を割りすぎるといけません。どの程度を見せるかがむつかしいし、また女でいながら大小を差して格式をもって大判事と対する」(六代目中村歌右衛門談)ので大判事同様、定高を演じる者は役者としてかなりの腕前を要する。 浄瑠璃でも、住太夫は「定高は未亡人です。男勝りに刀差して、性根はしっかりしています。…川向こうの大判事と話してるときには、定高の品格というか、風格というか、そういうキリッとしたところがなかったらいかんのです。後半に入って、雛流しの場面になったら、普通のお母さんに変わっていかないけません。」とその性根を述べている。 最後の雛流しは、死して一緒になった恋人たちへの鎮魂を込めた華やかにして哀切きわまる件である。竹本の伴奏に琴が加えられて演奏され音楽的にも悲しみを強調する。ここでは定高の娘の死を前にして、婚礼をかなえられなかった母親の無念さを示す演技も重要で、二代目中村鴈治郎は雛鳥の首に死化粧をさせて川へ流す文楽の演出をとっていた。大判事は、流れてきた道具を悲しみを湛えて一つずつ受け取る演技が求められる。特に雛鳥の首の乗った琴を弓でかき寄せる九代目市川團十郎の型が名高い。 定高は三代目中村梅玉、六代目中村歌右衛門、大判事は十一代目片岡仁左衛門、初代中村吉右衛門、二代目尾上松緑が当たり役としていた。なお今日演じられるのは昭和16年(1941年)9月の歌舞伎座で、岡鬼太郎の監修により初代吉右衛門の大判事、三代目梅玉の定高、三代目中村時蔵の久我之助、六代目歌右衛門(当時中村福助)の雛鳥によるテキストが底本となっている。 仲の悪い家の恋人たちが死によって結ばれる筋は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に酷似しており、影響を指摘する意見もある。なお戦後見たアメリカの観客は、「『ウエストサイドストーリー』のようだ」とコメントした(「ウエストサイドストーリー」も「ロミオ…」の翻案である。戸板康二『歌舞伎ちょっといい話』200頁、岩波現代文庫、2006年、岩波書店、ISBN 4-00-602098-8 C0174より)。
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