番付
番付表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:17 UTC 版)
力士記載 番付表には力士の地位、出身地、四股名が表記される。 最上部には力士の地位が記載される。幕内力士については、そのまま「横綱」「大関」「関脇」「小結」「前頭」と表記されるが、十両以下についても番付表記上は全員「前頭」の扱いとなる。十両力士については一人ずつ「前頭」と明記されるが、幕下以下の力士については数個の「同」表記で済ませる(幕下については文字同士をつなげて「同司司…」と表記され、三段目以下はさらに文字が簡略化される)。 地位の下に書かれる出身地は、江戸時代は藩名(お抱え大名の地域)で書かれることもあったが、明治以降は該当力士の出身地が表記されることになった。当初は律令国別だったが、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地名が表記され、1948年(昭和23年)5月場所より出身地名を含む都道府県名の表記、1956年(昭和31年)3月場所より全て都道府県名で表記されるようになった。幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉(江戸時代)または〈東京〉(明治以降)の表示でまとめられることが昭和初期まで多かった。外国出身力士については国や地域名で表記されており、アメリカ合衆国は「米国」、大韓民国は「韓国」、中華人民共和国は「中国」、台湾は「台湾」、その他の国は日本語発音に基づくカタカナ表記となっている。 出身地として表記される地名・国名に厳密な定義はなく、自己申告に基づき、本人と何らかの縁のある地名を表記している。このため本人の意向により変更されることがある。外国を出身地としていた力士が日本国籍を取得しても出身地が日本国内に変更されることは稀であるほか、当時在日韓国人であることを公表し韓国名を本名としていた金開山や栃乃若なども生まれ育った日本国内を出身地としており、番付上の出身地は必ずしも国籍を表すものではない。また、幕下付出力士の場合は初土俵を踏んだ場所の取組において本籍地がそのまま場内に紹介されてしまうことがあり、上林(番付上の出身地は山形県)は近畿大学の所在地である大阪府、山口(当時の番付上の出身地は東京都、のちに番付上も福岡県に変更)は祖父の出身地である福岡県が出身地としてアナウンスされ、いずれも場所中に訂正された。 下半分に四股名が表記される。その表記について、過去の番付においては「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、また番付の字はおおむね極端な長方形でできている。そのためデザイン的な理由から、偏(へん)と旁(つくり)を上下に並び替えることなど自由自在である。バランスをとるために〈木へん〉や〈山へん〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯、嶋→嶌などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある。また「海」の字の場合は「毎」の下に「水」を書く(𣴴)。平安時代初期の僧空海もこのような字を書いたことがあり、これらは実際に昔からある書き方である)、特に番付下位では略字を使うような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。 改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。現役引退して年寄になる場合や、名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。下の名のみの改名の場合は記載されない。 番付表の構成 現行の番付表は、中軸を上下縦長に貫いた後で、左右をそれぞれ五段に分けた枠構成になっている。横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(例:「司行」、「事理」)。 中軸 - 上から順番に「蒙御免(ごめんこうむる)」 - 江戸時代に相撲興行(勧進相撲)の許可を寺社奉行から得たことを公言したことの名残。昭和5年(1930年)4月29日に行われた天覧相撲のおりに発行された番付には「賜天覧(てんらんをたまわる)」と書かれた。 開催年月日と開催場所 - 両国国技館の場合は「国技館」と記載。地方会場で施設命名権の制度を取っている場合はそれに準じて記載される。 行司、審判委員一覧。 「公益財団法人日本相撲協会」の文字および所在地。 最上段 - 幕内力士。右半分に東方、左半分に西方力士を配しており、右端から左端に向けて地位が下がるように順番づけられている(二段目以下も同様)。地位に応じて文字幅を変化させており、横綱が幅7分5厘(約2.8cm)、大関が6分5厘(約2.5cm)、関脇・小結が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。 二段目 - 十両・幕下力士。十両力士が幕下力士よりも大きく太い字で書かれている。 三段目 - 三段目力士。 四段目 - 序二段力士。 最下段 - 序ノ口力士及び役員。東西ともに右から約5分の1に序ノ口力士、残りの部分に役員を書く。 右側 - 右から順番に役員(理事・副理事・役員待遇・委員)・若者頭・世話人。 左側 - 右から順番に役員(委員の続き・主任・年寄・参与)・呼出し(十枚目(十両)呼出し以上のみ掲載)・特等および一等床山(2012年(平成24年)1月場所より。これにより若者頭と世話人の記載場所が東へ回る) 「此外中前相撲東西ニ御座候(このほかちゅうまえずもうとうざいにござそうろう)」 - 番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され前相撲のみが現在も残っている。江戸時代には前相撲→相中→本中と進み、相中・本中を「中(ちゅう)相撲」といい、明治になって相中がなくなった。1973年(昭和48年)3月場所までは前相撲→本中と進み(1986年(昭和61年)より番付外の取組は全て前相撲として扱う)、新序出世披露を受けると翌場所の番付に四股名が記載される。なお、幕下付け出し及び三段目付け出しも初土俵の場所は番付には記載されないが「番付外」とは呼ばれない。 「千穐万歳大々叶(せんしゅうばんざいだいだいかのう)」 - 千秋楽までの土俵の無事と大入り満員を祈願する言葉。 番付に四股名が書かれるときの文字のサイズは、横綱が一番大きく書かれており、大関は一回り小さく、関脇・小結はもう一回り小さくという風に、地位が下になるほど小さく細くなっていき、序ノ口の力士はもはや肉眼で見ることが困難なことから俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。最下段の親方衆も、理事長の名前が最も大きく書かれ、役職が下になるほど字が小さい。行司や呼出しも同様に、上の地位の者は大きく、地位が下になるほど小さく書かれている。 1994年(平成6年)5月場所までは、三役の各地位に3人以上いる場合は、3人目以降を左右の余白に枠をぶら下げて記載していた(張出)。横綱については、一人横綱の場合でも張り出して表記し、ほかの力士よりも枠・文字ともに若干大きくした(大関以下の張出および横綱が3人以上いるときの張出横綱は、枠内の力士と同じ大きさで表記する)。張出が多い時には二段目の枠外に書かれており、直近の例では1972年(昭和47年)9月場所の東張出小結富士櫻である。1990年代に力士数が急増すると余白を取る余裕がなくなったため、1994年(平成6年)7月場所以降は張出制度が廃止された。 若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年(平成6年)7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。 2004年(平成16年)3月場所より審判委員(職階は主任や年寄・参与であっても〈審判委員〉に一括される)を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年(平成20年)1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。 また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚、時津風勝男、武蔵川晃偉、放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにも関わらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。 2014年(平成26年)1月27日、内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、当時の評議員のうち年寄でもあった南忠晃(湊川)、平野兼司(山響)、佐藤忠博(大嶽)の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載された。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」(新字体)に改められた。なお、力士出身の評議員は、現役年寄以外の者が就任した場合には番付には記載されない。 字体 江戸時代中期の元禄年間(1688-1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789-1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。 作成手順 行司が書く番付表(原版)を「元書き」( 大きい方の番付)といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)を鯨尺で測って線引き(枠書き)をして、以下の順番で書き込んでゆく。 「××○○年○○月○○日発表 不許複製」 - 枠外左下。年次は元号利用。昭和40年代頃より記載。以前は印刷日も書かれていた。 序ノ口 - 左から書く(ほかの段も同じ)。 序二段 年寄ほか 中軸(上から記載) 三段目 幕下、十両 幕内 原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に、縦横それぞれ約半分、面積にして約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に掲出される。 その他の番付表あるいはそれに類似するもの 本場所興行の際、東京場所では国技館の櫓の中ほどに、地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付」(2014年(平成26年)1月場所)が興行する場所に宣伝として掲げられる。総ヒノキ製で高さが約2m、幅が1.5mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4~5日かけて書き上げる(製作中、完成)。なお板番付では出身地と四股名の間を詰めて書かれるので、改名力士についての「〇〇〇(旧四股名)改」は書かれない。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。 相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札」(伊勢ヶ濱部屋の番付札)といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出、床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。 1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られることがあった(1879年(明治12年)~1881年(明治14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるため巡業番付は作られない。 引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。 番付表の歴史 江戸の中期から後期には紙番付があったが発行はせいぜい場所ごとに数百枚程度であったとされ、番付自体も厳密な序列表ではなく、地位の変動を知らせるというより力士を宣伝する媒体であった。同じ理由で、当時対戦表と共に有料で販売されていたと推測される勝負付と呼ばれる勝負結果表も一般の相撲ファンが欲しがるものというよりマニア層向けのアイテムであった。 享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている)や明治以降には写真番付も製作された。 現存する絵番付としては、1860年(万延元年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後柏鵬時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。 明治時代からは、大相撲の世界で番付は絶対的な上下関係であったことから序列表としての役割を持つようになり、番付上の地位の区別がより明確になった時期は1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。 東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年(明治5年)7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月~1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。 これ以前の番付で特筆されるものとして、弘化・嘉永年間(1845-1854年)、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州藩内で巡業を行ったとき、番付で「横綱」と明記されたものがある(東張出)。この番付表では「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。 番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄や準年寄は別にして)現在の数(105名跡)に定まった時でもある。 1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。 番付表の販売 番付表は相撲の本場所の会場で、1枚50円で販売されている。
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