木村筆之助
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| 基礎情報 | ||||
| 行司名 | 木村筆助 → 木村筆之助 → 2代木村今朝三 → 木村筆之助 | |||
| 本名 | 田畑啓 | |||
| 愛称 | 筆翁 | |||
| 生年月日 | 1924年1月17日 | |||
| 没年月日 | 1984年4月26日(60歳没) | |||
| 出身 | 長野県伊那市 | |||
| 所属部屋 | 伊勢ノ海部屋 | |||
| データ | ||||
| 現在の階級 | 引退 | |||
| 初土俵 | 1936年1月 | |||
| 幕内格 | 1958年7月 | |||
| 引退 | 1984年3月 | |||
| 引退後 | 現役中に死去 | |||
| 備考 | ||||
| 2017年1月12日現在 | ||||
木村 筆之助(きむら ふでのすけ、1924年1月17日 - 1984年4月26日)は大相撲の元幕内格行司。伊勢ノ海部屋所属。師匠は初代木村今朝三。長野県伊那市出身。本名は田畑 啓。生家は伊那市の映画館「伊那旭座」。
人物
1936年1月、12歳で相撲界へ入門。
1958年7月場所に幕内格行司に昇格。1967年7月場所より2代木村今朝三を襲名したが、1970年9月場所より今朝三の名跡を返上し筆之助に戻した。今朝三の名跡はこれ以降襲名する者が現れていない。
1966年11月場所より幕内格の筆頭行司であったが、上位の行司が急に廃業したり、病気休場したこともあり、行司の成績考課制度が導入された1972年~1973年頃の一時期は三役の取組を裁いたことがある。
1974年9月場所11日目、幕内での現時点最後の引分である前頭10枚目三重ノ海-同6枚目二子岳戦を裁いている。
1975年以降は糖尿病の悪化がもとで裁きに精彩を欠き、力士と接触・転倒することが相次いだため、日本相撲協会は筆之助を三役格行司に昇進させなかった。その為、後輩の8代式守錦太夫、10代式守与太夫、14代木村庄太郎に次々と追い抜かれることとなった。[1]
1980年9月場所4日目、前頭11枚目玉ノ富士-同6枚目荒勢戦では勝負が決まる前に足を踏まれ土俵上で転倒した。両力士に背を向けて起き上がろうとした際に勝負が決まった為、勝負の瞬間を見届けることができず、10代式守与太夫に控えから教えられて玉ノ富士に軍配を上げた。翌日から糖尿病を理由に休場。その後亡くなるまで番付に名を残したものの土俵に上がることはなかった。
部屋の横綱・柏戸の秘書的な役割も担い、地方巡業の時などは行動を共にしていた。
エピソード
- 1958年7月場所木村今朝三と式守勘太夫の勇退により幕内格に昇格したが、昇格場所より行司の数の欠員の影響により、幕内の土俵に上がっている。
- 1970年3月場所12日目、前頭5枚目大雪-同3枚目若二瀬戦で大雪が若二瀬を下手投げで倒したとき、筆之助(当時は今朝三)は大雪の四股名を忘れ、白房下勝負審判に尋ねてようやく勝ち名乗りを上げた。
- 同年7月場所12日目、前頭8枚目大雄-同5枚目黒姫山戦において立ち合わせず、審判委員が協議のうえ即刻退場処分となり、この取組は控えにいた4代木村玉治郎が裁いた。
- 1975年1月場所2日目、前頭10枚目富士櫻-同7枚目栃東戦で富士櫻が栃東を押し出した際転倒して脳震盪を起こしたため立ち上がれなくなり、控えにいた10代式守与太夫が代わって勝ち名乗りを上げた。
- 1980年5月場所千秋楽、前頭4枚目蔵玉錦-同6枚目鳳凰戦で筆之助は蔵玉錦と一緒に土俵下に転落、勝敗を確認し軍配を挙げることが出来ず、審判委員に聞いてようやく鳳凰に勝ち名乗りを上げた。
履歴
- 1936年1月:初土俵、木村筆助
- 1951年9月:十両格昇格(この頃筆之助と改名?)
- 1958年7月:幕内格昇格
- 1967年7月:2代木村今朝三襲名
- 1970年9月:筆之助に戻す
- 1980年9月:病気療養のため、5日目より休場
- 1984年1月:別格扱いとなる
- 1984年3月:番付上の最終場所
- 1984年4月26日:現役没
脚注
参考文献
- 根間弘海 (2016)『大相撲行司の房色と賞罰』
関連項目
- 木村筆之助のページへのリンク