代数外
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鶴澤利吉 ⇒ 鶴澤三二(代数外) ⇒ 二代目鶴澤蟻鳳 初代鶴澤蟻鳳門弟。 初出座や鶴澤利吉での出座が明らかではなく、鶴澤三二の襲名も不明である。二代目蟻鳳襲名時の番付に「江戸三二」とあることから、(大坂の)鶴澤三二の歴代には数えられていない。 安永7年(1778年)8月北堀江市ノ側芝居 豊竹此吉座『讃州屏風浦』の筆末に鶴澤三二とある。また、安永8年(1779年)『伊勢歌舞伎年代記』に鶴澤三二 始名利吉とある。師匠初代蟻鳳が安永4年(1775年)に初代蟻鳳を襲名していることから、この鶴澤三二は利吉の鶴澤三二(代数外)である。一時的な伊勢や江戸下りの後、天明元年(1781年)には大坂に戻っている。豊竹此吉座の筆末や、同年12月竹本義之助座では三味線筆頭に座っている。天明7年(1787年)12月豊竹座『韓和聞書帖』に江戸三二事鶴澤蟻鳳とあり、二代目鶴澤蟻鳳を襲名している。(筆頭は鶴澤寛治。筆末が蟻鳳)翌天明8年(1788年)9月道頓堀東芝居にては三味線筆頭となっている。寛政8年(1796年)正月江戸土佐座にて江戸下り 鶴澤蟻鳳として筆頭に座っている。同年12月道頓堀東芝居『菅原伝授手習鑑』に三味線筆頭で出座しており、江戸出座は一時的なものであった。師匠初代蟻鳳が江戸で活躍したのとは異なり、大坂で主に活躍した。以降の出座は『義太夫年表近世篇』では確認できない。 鴻池幸武宛て豊竹古靱太夫書簡の書簡番号3「二世喜八郎及三二/名跡の事」に「三二名跡は此頃/死去致しました三二が八代目で私しが//此人の本全部を預つておりまして/右名前の譲渡書が二代から三代三代から/四代と云ふよふに皆御座いますが三二から/喜八郎にわなつている人わ御ざいません/是はたしかに写違ひと存じ升/又三二から蟻鳳に成つた方も有るよふに/書てあるものも見ております」と山城少掾は記しており、また前述の通り江戸の鶴澤三二であるため、鶴澤三二の歴代には数えられていない。 没年等は不詳。
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代数外
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(生年不詳 - 天保2年(1831年)9月20日) 初代竹本八十太夫 → 竹本春太夫(代数外) 四代目竹本咲太夫の門弟で初代竹本八十太夫を名乗り、江戸で出座する。竹本播磨大掾(二代目竹本土佐太夫)に見出され、大坂に伴われ、竹本春太夫を堺にいた四代目竹本春太夫から一代限りで借り受けた。 八十太夫が竹本春太夫を名乗る経緯は、以下の通りである。初代岡太夫の門弟である三代目竹本春太夫は、前名を町太夫といい、その町太夫の名跡を門弟である枡屋又兵衛に名乗らせていた。師三代目春太夫の没後は、三代目竹本重太夫(五代目竹本政太夫)の門弟となり、文政3年(1820年)の因講大帳に「重太夫門弟 堺春太夫」とあることから、襲名披露はしていないものの、枡屋又兵衛が春太夫の四代目を相続していたことが確認できる。しかし、この堺の四代目春太夫は、多病のため、芝居に出ずに、堺に引っ込んでいた。そこで、東京から孫弟子の八十太夫を伴い帰坂した播磨大掾は、堺での芝居では別の名前で出演することを条件に、竹本春太夫の名跡を堺の四代目竹本春太夫から借り受け、八十太夫に名乗らせた(この経緯からこの八十太夫の春太夫は代数外とされる)。 「文政八年播磨大掾東京より咲太夫門弟八十太夫を連帰り我門弟として大坂出勤致さす処成共宜敷明名前もなく折柄堺春太夫事出勤もなく引込居らるゝ事故此名前を借受んと人を以て掛合に及びかり受候得共もし堺にて興行有ば外名前にて出勤致候との約定極め其頃播磨大掾の勢ひにて八十太夫事春太夫にて座摩社内芝居へ出勤致す名と云ひ声と云ひ初代春太夫の再来の如く評判宜敷勤められしが天保元年九月尾州名古屋にて死去せられし故名前元との又兵衛へ戻り」 「同八年酉の四月帰坂に付八十太夫を同道にて連帰り宜敷名前有ば改名致させんと存寄有共宜敷名前もと思へ共無之然るに堺住人春太夫事は三代目春太夫の高弟成共一向芝居出勤なく夫故播磨大掾より右名前借に遣し暫らく借受度由乍併堺へ出勤致さば名前を替て参る由約定有て弥借受五月朔日より座摩社内芝居にて前楠昔噺次に粧水絹川堤埴生村の段八十太夫改名して竹本春太夫切に兜軍記琴責の段掛合重忠播磨大掾岩永弥太夫あこや春太夫三弦鶴沢伝吉豊沢兵吉琴小弓鶴沢新十郎」 以上が『増補浄瑠璃大系図』の説明であるが、『義太夫年表 近世篇』によれば、文政6年(1823年)3月、文政7年(1824年)正月、文政8年(1825年)正月の江戸結城座の番付に竹本春太夫が確認できることから、既に江戸では春太夫を名乗っていた(あるいは播磨大掾が八十太夫に名乗らせていた)が、大坂での芝居出演に際し、播磨大掾が堺の四代目竹本春太夫の了解を得た(追認させた)という可能性も考えられる。八十太夫の竹本春太夫襲名披露は、文政8年(1825年)5月 大坂座摩境内『粧水絹川堤』「埴生村の段 切」『壇浦兜軍記』「琴責の段 阿古屋」にて行われ、「琴責の段」は重忠に播磨大掾、岩永に二代目竹本弥太夫が勤め、三味線は鶴澤伝吉(三代目鶴澤文蔵)が弾いた。「名と云ひ声と云ひ初代春太夫の再来の如く」と『増補浄瑠璃大系図』が記したほどの実力者に相応しい披露演目である。翌文政9年(1826年)11月 堺宿院芝居にて座本 町太夫改竹本春太夫 太夫 竹本播磨大掾の芝居があり、『御所桜堀川夜討』「淡路島の段」を語り四代目竹本春太夫を襲名している。これは『増補浄瑠璃大系図』から八十太夫への春太夫名跡の借り受けの返礼に播磨大掾が開いた襲名披露であることがわかる。「十一月十五日より堺宿院芝居にて座本町太夫改竹本春太夫太夫竹本播磨大掾御所桜堀川夜討初段八段返し淡路の段春太夫勤る是名前を借し返礼播磨大掾堺にて名弘め致」前述の約束の通り、八十太夫の春太夫は「堺にては出勤成がたく相休み」となった。この後も、「堺」と「江戸」の春太夫の両名が存在し、江戸の春太夫は諸座で活躍した。江戸の春太夫が堺での出座はできないという約束ではあったが、前述の文政11年(1828年)11月 堺 宿院芝居にて、詳しい経緯は不明であるものの、三代目竹本綱太夫と四代目竹本政太夫が間に入り両春太夫が顔合わせをしたものと推察される。 以降も、諸座で活躍したが、天保2年(1831年)9月20日名古屋にて死去。戒名は松蔭自涼信士。旅の途中であったため、「茶屋町西行当り無縁寺へ葬る石碑を残すなり」と寂しい最期であった。 門弟に四代目豊竹岡太夫がいる。
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代数外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:36 UTC 版)
鶴澤福造 ⇒ 鶴澤豊吉(代数外) ⇒ 豊澤仙右衛門 初代鶴澤豊吉(二代目鶴澤伝吉 ⇒ 四代目鶴澤友次郎)の門弟。 文政年間には三味線弾きとして出座していたが、文政12年(1829年)正月より北堀江市の側芝居の座本となる。三味線弾き欄にも名があることから、座本兼三味線弾きとなった。天保4年(1833年)4月まで北堀江市の側芝居の座本を勤める。天保5年(1834年)正月江戸両国回向院境内の芝居の筆末に鶴澤福造とあることから、江戸に下った。天保6年(1835年)3月江戸大薩摩座で『寿連理の松』「堺湊の段 切」で下りの竹本久太夫の太夫付となっている。筆頭は初代鶴澤清糸。しかし同月北ほり江市の側芝居の上2枚目にも鶴澤福造とある。筆頭は師の二代目鶴澤伝吉。その後も二代目伝吉が筆頭を勤める芝居に出座している。天保8年(1837年)2月北ほり江市の側芝居の上2枚目を最後に番付から鶴澤福造の名が消え、同年11月上旬伊勢川井町中島の番付に鶴澤豊吉の名が現れる。これは福造が師の前名である鶴澤豊吉の名跡を譲り受け、名古屋へ下ったことによる。そして名古屋の綱太夫(三代目綱太夫の門弟であるが代数外)の養子となる。以降も天保11年(1840年)2月名古屋清寿院境内の芝居の三味線筆頭に鶴澤豊吉とある等、名古屋で活躍した。しかし、天保9年(1838年)の見立番付には「東前頭大坂鶴澤福造」とある等、鶴澤豊吉として見立番付に収録されることなかった。 このように鶴澤豊吉を襲名するも、名古屋の竹本綱太夫(代数外)の養子となり、名古屋に留まると決めたことに師四代目友次郎が立腹し、同門の定次郎に「二代目」鶴澤豊吉を天保13年(1842年)に襲名させたため、養父の名古屋の綱太夫が怒り、四代目友治郎を破門し(破門という表現を『増補浄瑠璃大系図』はしている。友治郎と絶縁し弟子ではないとした)、二代目豊澤広助の門弟となり、豊澤仙右衛門となった。弘化2年(1845年)10月名古屋若宮社内の番付に「スケ 鶴澤(ママ)仙右衛門」とある。翌11月の同座の番付では「スケ 豊澤仙右衛門」となっている。『義太夫年表近世篇』では嘉永2年(1849年)3月名古屋若宮社内の子供浄瑠理(ママ)への出座まで確認できる。 安政5年(1858年)2月4日死去。法名:念能浄照信士。
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代数外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:06 UTC 版)
(生没年不詳) 竹本曽賀太夫 → 竹本津賀太夫(代数外) 初代の門弟。竹本曽賀太夫を名乗る。『義太夫年表近世篇』によれば、天保年間の江戸の公演で、師匠初代竹本津賀太夫との同座が確認できる。初代の没後竹本津賀太夫を名乗るも、竹本津賀太夫の代数には数えられておらず、二代目竹本津賀太夫は三代目竹本綱太夫・四代目竹本綱太夫の門弟から出ている(二代目欄参照)。 竹本曽賀太夫は、初代津賀太夫の門弟であることから、師弟間での竹本津賀太夫の名跡相続を考えていたものと思われるが、①初代竹本津賀太夫は、二代目竹本綱太夫の門弟であり、②竹本津賀太夫は、師匠二代目綱太夫の本名:津國屋(つのくにや)甚兵衛の「津」の字に由来する、竹本綱太夫系の重い名跡であること(同様の例として竹本津太夫が挙げられる)、③初代津賀太夫が没した天保8年(1837年)時点で、初代竹本津賀太夫の師匠名跡の竹本綱太夫が三代目(当時:三綱翁)・四代目と健在であったことから、④いくら初代が江戸で紋下に座るほどの活躍を見せたとしても、竹本綱太夫系の名跡である竹本津賀太夫は、当代竹本綱太夫の四代目竹本綱太夫の管理となるため、三代目竹本綱太夫・四代目竹本綱太夫の門弟である初代竹本寿太夫が二代目として竹本津賀太夫を相続した。竹本綱太夫系における名跡管理の厳格性や、三代目竹本綱太夫(三綱翁)・四代目竹本綱太夫が持った権威を感じるエピソードである。 嘉永四辛亥年三月改正の『次第不同三都太夫三味線操改名録』にて、「寿太夫 竹本津賀太夫 鯉や」「曽賀太夫 竹本津賀太夫 越中や」と、両名の津賀太夫が記されていることから、京・大坂の二代目津賀太夫と江戸の津賀太夫(代数外)が同時期に存在したことが確認できる。
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代数外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:54 UTC 版)
(生没年不詳) 竹本真砂太夫 → 竹本政子太夫 → 竹本中太夫(代数外) → 竹本政太夫(代数外) 三代目竹本中太夫の門弟。文政5年(1822年)の頃より師について竹本真砂太夫を名乗る。文政8年(1825年)竹本政子太夫と改名するも、退座。文政10年(1827年)に江戸にて竹本中太夫を名乗るが、竹本中太夫の名跡は、同門の竹本佐賀太夫が天保3年(1832年)正月稲荷文楽芝居『生写朝顔話』の初演時に佐賀太夫事四代目竹本中太夫として襲名し、中太夫名跡を正統に相続しているため、「大坂にては佐賀太夫事中太夫と名乗双方にて二名と相成候得共元は大坂の名前故今は大坂一名となるなり」と『増補浄瑠璃大系図』にあるように、代数外となる。 同様に、嘉永3年(1850年)江戸にて、六代目竹本政太夫の名跡相続を宣言し、摺物を配るなどしたが、三代目竹本長門太夫を中心とした大坂因講の強い反対で差し止められた。 神田由築氏の論文「近世大坂の浄瑠璃渡世集団 : 天保期から幕末にかけて」から引用すると下記の通りとなる。 「中太夫(引用者註:代数外)の主張の要点は、「三代目政太夫→四代目→五代目」という大坂の系譜とは別の、「三代目→中太夫」という江戸の系譜こそが正統性をもつ、というものである。その根拠は、江戸にある三代目の旦那寺および石碑の世話を自分がしており、そのことを三代目の縁者と旦那寺が保証している、という点にある。一件の争点は二点である。 第一に、四代目政太夫の名跡相続の時期の問題である。中太夫側では三代目の死後、相続が行われたとするが、大坂因講側は三代目の生存中であったとする。すなわち大坂因講側の主張は、四代目の名跡相続は三代目が承認したものであり、「三代目→四代目→五代目」と「先代之名跡も連綿ト御座候」につき、これ以外の系譜の可能性はない、というものである。 第二に、中太夫が証拠書類として提出した「證文下書」「摺物」の内容についてである。「證文下書」とは、①三代目政太夫の縁者から中太夫に宛てた、政太夫名前を譲る旨の証文、②三代目の菩提寺から中太夫に宛てた中太夫が同寺の縁旦家である旨の証文、の二通である。やがてこの「三代目の縁者」が「播磨屋利兵衛(三代目政太夫)の養子卯之吉の妻の後添」という遠戚にすぎず、中太夫が無理に仕立てたことが判明する。また石碑名についても、五代目政太夫の息子・鶴澤才治が浅草寺町密蔵院を訪れ、過去帳と石碑を調査したところ、「播磨屋利兵衛」ではなく「播磨屋利助」という名前が刻んであることがわかった。こうして政太夫の名前は大坂のみに存在することが明らかになり、中太夫の主張は斥けられる」 この一件につき、『増補浄瑠璃大系図』は、「政子中太夫事は彼地住居と相成段々年月立て東京因の古老となり老て気儘を出し理不尽に竹本政太夫と名乗披露摺物祝ひ杯配り候事大坂へ聞え政太夫名前は海内一名にて大坂に引続遺跡有事人々知る処にして代々の石碑等も有之何共相済がたき致方故早速大坂より差留に遣はせし処色々と申立一応にて相止不申依て因社と東京社中と掛合に相成其時東京因古老筆頭成播磨太夫の申条にて政太夫名前は大坂に限る事相違無之大坂へ可渡之趣故其時大坂よりの証人五代目政太夫倅鶴沢才治長門太夫門弟東京咲太夫長尾太夫右三人承り大坂に差戻すなり依て中太夫外聞がたがたにて東京に居られずして旧舎へ引込果られし也」と、中太夫(代数外)が東京にいられなくなり、田舎へ引っ込んだという後の顛末まで記載している。 倉田喜弘編『東京の人形浄瑠璃』には、この中太夫(代数外)の配った摺物の内容が記載されている。 「浄瑠璃の道は小野通女より発りて、世々業人の雷名は轟きけり。程遙にしてわが師岡嶋屋(三代目)中太夫、亦亡父政子太夫、ともに難波塩町(三代目)政太夫うしの門人にて有候頃、此うし世を送給ひて後、備後町(二代目)氏太夫(四代目政太夫)、亦(三代目)重太夫(五代目政太夫)、ともに政太夫の芸名一代の間借請られ、舌秀芸た□か、これもとく古へ人とはなられたり。爰に浅草寺町密蔵院はかの塩町うしの菩提寺なり。こたひゆかりの者より其おくつきの無縁にならん事を歎き、先師亡父か因みあれはとひたすらの進め、鳴呼なる業もいなみかたく、あらためて政太夫となのる事とはなりぬ。 末々におよはぬ業のひとふしは 木ニ接竹の心地こそすれ 中太夫事竹本政太夫 師の功名を悦ひていさみたつ 門弟の人々にかはつて 此道のつはものなれや今まさに ひと旗上るわさのいさをし 六朶園〔朱印〕二葉 嘉永三戌のとし水無月」 この他にも、江戸(東京)にて六代目政太夫を名乗った豊竹岡太夫(本名:日比野又市)が存在するが、上記の通り大坂(大阪)以外に政太夫の系譜は存在しないため、中太夫(代数外)と同様に代数外となる。
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