初代清六
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 10:02 UTC 版)
初代清六は幼名を民治郎といったが、民治郎が18歳のとき、庄屋まで務めていた旧家だった諸戸の家をつぶしてしまった父清九郎の名をひっくり返して清郎九つまり「清六」と変え、その時に「立志の誓い」を行ったという。その時の「立志の誓い」が現在でも諸戸家の家訓になっているというが、清六は、「時間是金也」、つまり「時は金なり」を信条として勤倹節約を実行し、米の売買を主に、わずか2年ほどで父のつくった膨大な借金を全部返済してしまった。 清六は1872年、時の三重県令岩村定高と知り合ってから、政商的な色彩を強め、後に大隈重信や松方正義、品川弥二郎、大倉喜八郎、渋沢栄一、森村市左衛門らと親しく付き合うことになる。西南戦争では米の相場で大儲けし、大蔵省御用の米買方となった。清六が米相場から、土地に手を出したのは1883年頃からであるが、「田地買入所」の幟を立てて買い始めたが、わずか5年ほどで清六が買い集めた田地は5千町歩にものぼった。清六の土地買いは、田地田畑だけではなく、その後、東京の恵比寿から渋谷、駒場に至る住宅地30万坪を買いまくり、ひと頃は渋谷から世田谷まで、他人の地所を踏まずに行けたといわれる。 1880年代後半から1890年代にかけて「住宅地」の買占めを行ったわけであるから、その先見ぶりは驚くばかりである。初代清六の二男精太は40歳の半ばにして早世したが、宇垣一成とは非常に親しい間柄になり、さらに父清六とつながりのある政治家や財界人との付き合いを深め、タオル事業や証券会社の設立などを行い諸戸家の事業をより発展させている。
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