初代清水喜助とは? わかりやすく解説

初代清水喜助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:47 UTC 版)

清水喜助」の記事における「初代清水喜助」の解説

1783年天明3年) - 1859年6月8日安政6年5月8日)) 江戸時代大工棟梁で、のちの清水建設創業者1783年天明3年)、現在の越中国婦負郡小羽(現・富山県富山市小羽)の豊かな農家長男生まれた1804年文化元年)、21歳のとき、神田鍛冶町絵草紙の裏店を住居にし、大工職として江戸で第一歩踏み出したこの年清水建設では創業の年と定めている)。その後、「清水屋」の屋号で、神田石町(現・内神田三丁目)の表通り店をだす丹後宮津藩本庄家御用達大工となり、1838年天保9年)には、江戸幕府の命により江戸城西ノ丸造営の一工区請け負うそれ以来彦根藩井伊家佐賀藩鍋島家御用達務める。このとき喜助越中から呼び寄せた弟子藤沢清七とともに御用務めた。後に喜助は、清七の腕と働きぶりを見込んで彼を長女ヤス婿養子迎える。喜助一介職人から幕府御用務めるまでに出世したその経緯について詳しい資料はないが、清水屋世間から信用され喜助清七確かな仕事ぶりでそれにこたえ、商売基礎固めていった。1849年嘉永2年)には、江戸牛込高田八幡宮隨身門工事完成こうした実績重ねつつ、喜助神祇伯白川神道門人神拝次第伝授され、「日向」の国名名乗ることと、上棟式には風折烏帽子祭事装束着用認められた。つづいて1851年嘉永4年)には、上野輪王寺宮から「出雲」の国名熨斗目着用非常時には帯刀許されるまで出世した1858年安政5年)、200年以上に及ぶ長い鎖国解かれ幕府はその翌年神奈川長崎箱館開港喜助経営者として時代転換をとらえ、素早く開港場建設参加した当時小さな漁村であった横浜役所役宅商人たち事務所店舗など建設ラッシュ沸いており、喜助横浜坂下町にも支店構え清七にこの店を任せた喜助老齢であったが、仕事に注ぐ情熱衰えず江戸横浜頻繁に往復した1859年安政6年5月喜助はある外国関係の工事の遅れを取り戻すため、早朝早駕籠江戸出発。しかし途中で病に倒れそのまま帰らぬ人となった

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