二代清水喜助
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(1815年(文化12年) - 1881年(明治14年)8月9日) 二代清水喜助となる藤沢清七は越中国礪波郡井波(現・富山県南砺市井波)出身である。初代喜助の生誕地である小羽と井波は直線にして20kmという至近距離にあり井波は宮大工輩出の地として知られていた。清七は小間物商の子として生まれたが、幼少の頃から社寺建築に親しみ、やがては大工を天職と決め、天保年間に初代喜助を頼って江戸にでた。初代喜助は江戸城西ノ丸の造営に参加するにあたり、22歳の藤沢清七を引き連れている。清七は、西ノ丸の造営に参加した翌年、初代喜助に認められ、長女ヤスの婿として迎えられた。その後、43歳の時に、清七が二代を継ぎ、清水喜助清矩を名乗った。 二代清水喜助は開港の翌々年にあたる1861年(文久元年)に神奈川役所定式普請兼入札引受人に指名された。1862年にデント商会の代理人を務めるロレイロの事務所兼住宅を施工した。外国人技術者の下で働くようになり、ブリジェンスやウィットフィールドなどから西洋建築を学ぶようになった。1866年(慶応2年)には横浜新田北方製鉄所、翌年には神奈川ドイツ公使館を請け負い、1870年(明治3年)には、東京開市場に築地ホテル館を経営するかたわら横浜居留地商館14番館以下の6館、次いで横浜で明治政府から外国人応接所を請け負うなどしている。また、棟梁・親方として生きた初代清水喜助と違って、二代清水喜助は1859年(安政6年)に開いた横浜店を任され、材木商、金物の販売や、後には貸家業、唐物といわれた洋品の店を経営し事業家としても成長した。1863年(文久3年)、二代清水喜助は江戸の隅田川ほとりにある三圍稲荷内社殿を完成させている。三圍稲荷は越後屋三井(のちの三井財閥)の守護神とされているもので、これを契機に番頭である三野村利左衛門に知られ三井組の建築を請け負うようになる。さらに、三野村利左衛門の紹介により、のちに清水組の相談役になる渋沢栄一の知遇を得る。三井組とのつながりは、その後長い期間にわたって多くの工事案件を清水組にもたらし、資金融資面でも支援を受けた。1881年(明治14年)2月、日本橋本石町の居宅が類焼に遭った。その時、二代喜助は消火に努めて風邪をひき、それが引き金となって体調を崩した。以後は寝込むようになり、体力がしだいに衰え、ついに同年8月9日、65年の生涯を閉じた。
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