二代清水喜助とは? わかりやすく解説

二代清水喜助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:47 UTC 版)

清水喜助」の記事における「二代清水喜助」の解説

1815年文化12年) - 1881年明治14年8月9日) 二代清水喜助となる藤沢清七越中国礪波郡井波(現・富山県南砺市井波出身である。初代喜助生誕地である小羽井波直線にして20kmという至近距離にあり井波宮大工輩出の地として知られていた。清七小間物の子として生まれたが、幼少の頃から社寺建築親しみ、やがては大工天職決め天保年間初代喜助頼って江戸にでた。初代喜助江戸城西ノ丸造営参加するにあたり22歳藤沢清七引き連れている。清七は、西ノ丸造営参加した翌年初代喜助認められ長女ヤスの婿として迎えられた。その後43歳の時に清七二代継ぎ清水喜助清矩を名乗った。 二代清水喜助は開港翌々年にあたる1861年文久元年)に神奈川役所定式普請入札引受人指名された。1862年デント商会代理人務めるロレイロの事務所住宅施工した。外国人技術者の下で働くようになり、ブリジェンスやウィットフィールドなどから西洋建築を学ぶようになった1866年慶応2年)には横浜新田北方製鉄所翌年には神奈川ドイツ公使館請け負い1870年明治3年)には、東京開市場に築地ホテル館経営するかたわら横浜居留地商館14番館以下の6館、次いで横浜明治政府から外国人応接所を請け負うなどしている。また、棟梁親方として生きた初代清水喜助違って、二代清水喜助は1859年安政6年)に開いた横浜店任され材木商金物販売や、後には貸家業唐物といわれた洋品の店を経営し事業家として成長した1863年文久3年)、二代清水喜助は江戸隅田川ほとりにある三圍稲荷社殿完成させている。三圍稲荷越後屋三井(のちの三井財閥)の守護神とされているもので、これを契機番頭である三野村利左衛門知られ三井組建築請け負ううになる。さらに、三野村利左衛門紹介により、のちに清水組相談役になる渋沢栄一知遇を得る。三井組とのつながりは、その後長い期間にわたって多く工事案件清水組もたらし資金融資面でも支援受けた1881年明治14年2月日本橋本石町居宅類焼遭ったその時二代喜助消火努めて風邪をひき、それが引き金となって体調崩した以後寝込むようになり、体力がしだいに衰え、ついに同年8月9日65年生涯閉じた

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