二代教派の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 15:00 UTC 版)
明代初期には、朱元璋は当初は仏教・道教を規制する政策を採り、僧侶・道士は集中的に管理されて大衆とともに生活することを禁じられた。これは農民蜂起を防ぐための措置であったとされる。しかし朱元璋は正一道の斎醮行事が自身を神格化し封建統治を強固にしうると気が付き、龍虎山の天師に全国の道教を管理させたほか、自ら斎醮の儀礼を制定して全国に公布し実行させた。その後の明代の皇帝も同様に道教を重視し、たとえば朱棣は自らを真武神の生まれ変わりであると称し、武当山の道観を修復した。 明代を通して、道教が国家の制度に組み込まれ、正一教と全真教が正当な道教の宗派と定められた。特に北方を全真教、南方を正一教が教区として担当した。どちらも道観を拠点に道士が宗教活動を行う点で共通するが、出家した道士に戒律を伝授し資格を認める厳しさを持つ全真に対し、正一は符籙を与える制度で地位を与えられた道士には妻帯も許された。ただし、全真教はやや衰退し、全真教の道士でも正一教の教法にも通じていなければ官を授けられないという状況もあった。その後も小さな派閥が生まれては消えたが、正一と全真を二大本流とする道教の構造は今に引き継がれている。 ほか、明初には張三丰によって武当道が盛んになった。その信仰の中心は北極・北斗星を神格化した玄武神である。張三丰は、武当山から発祥した道教拳法の祖ともされる。
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